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異端の建築再読

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異端の建築再読
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既成概念にとらわれないで自由に発想した建築空間イメージを紹介しています.
他から与えられた枠内に閉じこもる安堵感と引き換えに大切な何かを手放していることの多い時勢へのささやかな抵抗のつもりです.

ホームページにもお立ち寄りください.
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■住まい造りのワンポイント・アドバイス
■二級建築士受験のワンポイント・アドバイス
■変人の回想ブログ
も不定期に掲載しています.
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雑観/美術-14 神様がお尻を丸出しで...

2017/05/20 09:45
変人の暮らしと、少々毒のある雑観です.
□□□□□
ローマに旅行する人は、必ずと言っていいほど、バチカン市国の中の
システィーナ礼拝堂を訪れます。
多くの場合、ミケランジェロ(Michelangelo di Lodovico Buonarroti
Simoni/1475-1564)が、1508年から4年をかけて制作した天井画が
お目当てです。

画像画像
(左/註1) システィーナ礼拝堂/1473-81
 /バッチョ・ポンテッリ(Baccio Pontelli/1450-92),
 ジョヴァンニーノ・デ・ドルチ(Giovannino de' Dolci/1435-85)
(右/註2) 現在は内部の撮影は禁止されています.


天井画は「創世記」の中から9場面が描かれています。
この中でも、「アダムの創造」が最も有名です。
神がアダムに手を差し伸べて、エネルギーを注入しようとする時の、
指先が触れ合う瞬間の場面です。

画像
(註3) 身体に命が宿る瞬間の静謐な緊張感が流れる場面です.


私がこの場面を最初に見た時は、不遜ながら、乾燥時に金属性のドア
ノブに手を触れて、指先に静電気が走るショックを思い出しました。
おそらく、アダムも、エネルギーが流入する時は、指先と身体全体に
心地よいショックを感じていたと思います。

14-4 汚れ
画像
(註4) 腰布を描き足してお尻を隠すことはできたと思いますが...


私は、この「アダムの創造」よりも、有名ではありませんが「太陽、
月、植物の創造」の場面の方が好きです。
創造の神が大地を創り、植物を生み、昼と夜、時間と四季を支配する
太陽と月を創り出した場面です。

イカつい顔した神様が、どこからともなく現れ出でて、両手を広げて
「マルッ」と言いつつ(?)指先で円を描くと、太陽と月が誕生します。

「よし」と思った(?)神様は、スーッとどこかへ飛び去っていきます...
お尻丸出しで...。
その姿が、不遜ながら、ユーモラスに見えて、私は好きなのです。

画像(註4)
修復されると、顔や手の
浅黒い肌色と対照的に、
神様のお尻が、より一層
白く輝いて見えるように
なりました.
神様もお尻だけは日焼け
しないからでしょう.

上着は着ていても、何故かズボンを履かず、腰布を前部に掛けている
だけなので、後ろから見ると、お尻が丸見えなのです。

特にお尻に注目しなければ、創造の神の「力」の壮大さ素晴らしさを
賞賛し、感動する場面です。
気にしなくてもよいところですが、一旦お尻が気になると、なかなか
頭から離れなくなります。

しかし「お尻丸出しの神様の後ろ姿」の表現や意味について解説した
資料は、ついに見つけることはできませんでした。

画像

(註5) 裸体であるよりも、
腰布で隠す方が、猥褻に
なるような気がします.
現在はほぼ半数の腰布が
除去されています.

天井画の完成から24年後、ミケランジェロは礼拝堂の正面に「最後の
審判」を描くことになります(1536-41年)。

ミケランジェロは「人間は神に似せて創られた。真に美しいのは裸体
である」という強い信条を持っていました。
ですから、彼はこのフレスコ画の全員を全裸で描きました。

しかし、1555年に就任した教皇は、芸術性よりも裸体や性器の群に
注目したのか、これを猥褻だと断じて破却しようとしました。
そこでダニエレ・ダ・ヴォルテッラ(Daniele da Volterra/1509-66)
が急遽「腰布」を加筆し、絵は壊されずに済みました(1565年)。

画像

(註6)
コンクラーヴェも行われる
神聖な空間ですが、天井や
壁に、こうも裸体が多いと、
少々うんざりします.

「人間は神に似せて創られた」とすれば、神のお尻は、人間のお尻と
同じように見えるはずです。
しかし、ミケランジェロの描いたお尻は、「最後の審判」のように、
筋肉たくましいモノが多いようです。

それに比べると「太陽、月、植物の創造」の場面の神のお尻は、少々
雑に描いているように見えます。
恐れ多くて、神のお尻は直視できない、のでしょうか。
あるいは、神は概念であって実体がないという理由で、少しボカして
描いたのでしょうか。

わざわざ神のお尻を丸出しにした意図は何なのか、神様に失礼ながら、
私は興味津々で眺めていました。
神様にズボンを履いていただくか、丈の長い衣服を着ていただくか、
前を向いていただくかして、ミケランジェロがお尻を描かなければ、
ゲスな悩みを持たずに済んだのです。

お尻丸出しの理由は不明ですが、あの神様の姿は、不遜ながら私には
ユーモラスに見え、またミステリアスでもあり、好きです。

170520
□□□□□
(註1)「wikipedia/システィーナ礼拝堂」
 https://ja.wikipedia.org/wiki/システィーナ礼拝堂
(註2)「Google Map」
(註3)「pinterest.com」
 https://ro.pinterest.com/explore/システィーナ礼拝堂/
(註4)「wikipedia/システィーナ礼拝堂壁画修復」
 https://ja.wikipedia.org/wiki/システィーナ礼拝堂壁画修復
(註5)「wikipedia.org/最後の審判(ミケランジェロ)」
 https://ja.wikipedia.org/wiki/最後の審判_(ミケランジェロ)
(註6)「figaro」
 http://madamefigaro.jp/paris/blog/keiko/51820707.html



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暮らし/日常-29 土足で家に侵入した少年

2017/05/10 10:50
変人の暮らしと、少々毒のある雑観です.
□□□□□
拙宅の近隣にも、高齢の夫婦だけで暮らすお宅が多くなりました。
時々、独立した息子・娘夫婦が孫を連れて遊びに来ています。
彼らの小さな孫が「おじいさん、こんにちは」と挨拶してくれると、
本当に嬉しくなります。

しかし、その中に、私を避ける息子がいます。
例の「オレガ」夫婦の息子です。
彼が私を避ける理由は、彼が小学校の高学年の頃、拙宅に土足で侵入
したことを、私が目撃したからです。

夏の昼下がりの静寂な時間、私一人が家にいて読書していました。
「オレガ」息子が、ゴム草履を履いたまま、庭からソーッと家の中に
無断で上がり込んで来ました。
足音を忍ばせ、畳の上を歩き回り、私の子供の遊ぶボールを発見し、
手に取って持って行こうとしました。

画像

(註1)
この子の親も他人の敷地に
無断で入ることがあります.
モノを盗ったことはないと
思いますが、他家の庭先に
無断で入ることに無頓着な
家庭のようです.

その時、彼は私が家の奥にいることに気づき、「アッ」と小さな声を
出し、ボールをソーッと放し、ソロリソロリとゆっくり後ずさりして
出て行きました。

私は黙って一部始終を見ていただけでした。
畳に着いた土の足跡を掃除しただけです。

その後の彼は、何事もなかったように振舞っていましたが、私だけを
避けるようになったのです。
人知れず後悔して、悩んでいたのかも知れません。
あるいは、「オレガ」夫婦の生き方と同じように、自分に都合の悪い
ヤツを憎らしく思っていたのかも知れません。

画像
(註2)
土足で家に侵入した少年は、
その後、単なる人見知りとは
違う態度で、私を睨みつけて
避けるようになりました.
そして彼の子供も同じ仕草を
するようになりました.

私はその出来事は誰にも話していません。
「オレガ」息子の今後に傷がつくかも知れないと思ったからです。
彼には「誰にも言わないから忘れなさい」と伝えたいのですが、その
機会はありませんでした。

「オレガ」息子が私を避けて嫌う姿勢は、その子供に伝播したようで、
その子も私を嫌って逃げていきます。
事情を知らない「オレガ」は「俺の孫に嫌われるヤツは性根が腐って
るんだよ」と、笑いながら近隣に吹聴していました。
そして「オレガ」は、「オレガ」息子を品行方正だと自慢します。

昔の嫌な出来事を胸に抱えて、辛い思いをしている人は必ずいます。
「オレガ」息子には、この苦々しい経験を肥しにし、思い出の辛さに
寄り添える人として成長していくことを願っています。

170510
□□□□□
以下のサイトの画像を加工しています.
(註1)「住まいの松木」
 http://www.sumainomatsuki.com/2011/09/
(註2)「出会い大学」
 http://deai-daigaku.com/shyness/




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雑観/TV番組-09 親切だろうけと少々迷惑な手差し

2017/04/29 10:55
変人の暮らしと、少々毒のある雑観です.
□□□□□
私はニュース番組を観るのが好きです。
特に、政治的多数にへつらわず、理路整然と正論を述べる、司会者や
解説者のいる番組は、好感を持って観ています。

しかし、解説者の説明している時、司会者がパネルの前に出てきて、
説明部分を「手差し」してくれるのは、私は迷惑に感じています。
「手差し」は、不遜かも知れませんが、私には目障りに映るのです。

画像画像
(左.右/註1) 「手差し」は親切のつもりでしょうけど...


解説パネルの全体を見たり、他の部分をチラ見しながら、説明を視聴
しているのに、「手差し」されると、そこを強制的に注視させられて
いるように感じます。

「手差し」する司会者が、単なる出たがりというわけではなく、特に
親切な性分なのかも知れません。
親切な彼は、解説を正確に効率よく理解するように手助けしていると
思いますが、その手が邪魔なんです。

本を読んでいる時、親切な誰かが側に来て、次に読む行を「指差し」
してくれるのと同じです。
それは、ほとんどの方は迷惑に感じると思います。
次の行を指で差されなくても読めるし、自由に読書したいのです。

画像

(註2)
忌憚のない解説ほど
自由に聴きたいです.

「手差し」を気にせずに解説を聞けばいいのでしょうが、それほどの
集中力はありません。
彼の手がどうしても視野に入るし、彼の視聴者(カメラ)を見る視線も
気になってしまうのです。

悲しい事件を報道している時に、チャカポコと面白おかしい音楽(?)を
聞かされることにも、不愉快を我慢しています。
さらに、解説を自由に視聴する際にも目障りがあると、報道に誇張が
あるのではないかと疑ってしまいます。

「手差し」も「チャカポコBGM」も控えめにした、端正な報道姿勢を
心密かに待望しています。

170429
□□□□□
以下の画像を加工しています.
(註1)「YouTube」
 https://www.youtube.com/watch?v=9mRyP9zlxdM
(註2)「女子アナ&気象予報士」
 http://blog.livedoor.jp/horiemongogo321/archives/2013-02.html?p=2
harakaori_miyaneya_20140923150625


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暮らし/日常-28 安価な茶碗にも「顔」があります

2017/04/19 10:47
変人の暮らしと、少々毒のある雑観です.
□□□□□
拙宅では、食事の後片付け・食器洗いは私の仕事です。
私は、料理は湯を沸かすことしかできないので、後片付けを分担して
いるのです。

別のことを考えながら食器を洗い、皿を落としそうになって、ハッと
我に帰ることがあります。
そして、ついに、私の湯呑茶碗の口を少し欠いてしまいました。

少しでも欠けた茶碗を使うのを女房は非常に嫌います。
気に入っていたし、高価なものではないし、ついでの用もあるので、
新調することにしました。
二人で「大宮そごう」の7階、和食器のコーナーに向かいました。

画像
美濃焼だと思いますが...
同じデザインの飯碗と
湯呑茶碗です.
意外と安価でした.

同じ茶碗でも、「胴」の釉薬の模様が微妙に異なります。
私は茶碗の「顔」を気にするので、釉薬の模様を慎重に選びます。
安価な茶碗でも、それぞれに個性的な「表情」をしているのです。

茶をいただく時は、温かい碗を両手に包んで、しばし「顔」を眺め、
そして「顔」の部分を避けて縁に口をつけます。
妙な癖ですが、昔、祖母から教わった、普段の茶の楽しみ方です。
それは、女房にも気付かれないような、瞬間のこだわりです。

画像画像
(左) この「顔」の景色を見ると、(右/註)海の風景をイメージします.


和食器のコーナーで、いくつか並ぶ同じデザインの茶碗の、それぞれ
個性的な「顔」を眺め比べていました。
私はニタニタしていたのでしょうか...女房が「何してんの?」と怪訝な
様子なので、相性の良さそうな「顔」の茶碗を急いで購入しました。

私が縁を欠いた古い茶碗は、心中で丁寧に礼を伝えて廃棄しました。
新しい茶碗も、安価ですが、「顔」の景色を楽しめます。

画像

器の「顔」は個性的な
小さな「軸」を作り、
動きながら絡み合って
団欒の空間を賑やかに
します.

私は、どの部分も正面であるような、つまり正面のないコップや碗や
皿よりも、「顔」らしき正面のある和食器の方が好きです。
「顔」や正面のある器は、単なるテーブル上の「点」でなく、小さな
「軸」を作って空間秩序に参加しているような気がするからです。

つまり、いくつかの「点」が散在するよりも、小さな「軸」が複雑に
絡み合う方が、団欒の「場」が少し豊かになると思うのです。

170419
□□□□□
(註)「pakutaso」の画像を加工しています.
 https://www.pakutaso.com/20150225044post-5172.html



記事へなるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 0


雑観/TV番組-08 NHK「旅するユーロ」

2017/04/11 09:50
変人の暮らしと、少々毒のある雑観です.
□□□□□
春分の日とその翌日、毎週欠かさず観ていたTV番組が終了しました。
昨年の10月から半年間続いた、NHKの4番組、「旅するドイツ語・
旅するイタリア語・旅するフランス語・旅するスペイン語」です。

集中力の弱い私は、教養番組は苦手ですから、どうせ最初の数回しか
見ないだろう...と半ば諦め、テキストなしで眺めていました。
しかし、この4番組は、ついに最終回まで見続けてしまいました。

4月から再放送されていますが、それより、続きの方をもっと見たい
と思いました。

画像

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(左/註1) ウィーンと近郊の街を歩く「旅するドイツ語」です. 私は
 テキストは購入しませんでしたが、それでも十分に楽しめました.
(右/註2) カフェ・ディグラス(Café Diglas)の内部です.
 私たちも後ろの窓際のテーブルで道往く人を眺めながらコーヒーを
 飲んでいたことがありました. スタッフもこの男性でした.


その理由は、この4番組が、従来のスタジオ収録の「語学番組」とは
かなり趣の異なる内容だったからです。
つまり、視聴者が飽きないように様々に演出して、言い回しや文法を
教え込むのではないのです。

現地の街を歩きながら、庶民の家庭を訪問し、宮殿や教会、カフェや
ビストロを巡りながら、出演者が現地の人と言葉を交わすのです。
ネイティブゲストの指導を受けながら話すフレーズは、流暢ではない
のですが、逆に私には親近感がありました。

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(左/註1) 出演者の控えめなジェスチュアが「雅楽」的でした.
(右/註3) イタリアの市民は、人生を楽しむ術を持っています.


スタジオで、文法に注意しながら話す言葉は、頭脳を刺激します。
対して、人の生き様や、伝統文化や街への愛情に触れる時の会話は、
自然に身体に染みていくような気がしました。

その時に覚えたつもりのフレーズは、その都度すぐに忘れていきますが、
その場面の映像は印象に残っています。
似たような情景に会えば、そのフレーズは思い出しやすいでしょう。

画像

画像
(左/註4) ネイティブゲストのさりげないエスコートが素敵でした.
(右/註5) パリの女性の気品は、街の空間が育んでいると思います.


それに、昔の旅行で、見たことのある建物や歩いた街角、コーヒーを
飲んだカフェの映像が出てくると、「あの時は、こう言えばよかった
のか...」と渋い懐かしさが湧き上がってきます。

私は、NHK「旅する○○語」は、会話の学習よりも、海外旅行ガイド
として楽しんだのです。
月曜の23時25分または火曜の24時からの1時間、一人、風呂上がりの
寝酒を飲みながら、時々メモを取りながら、眺めていました。
私にとって、理想的な学習スタイルです。

画像

画像
(左/註6) 市民は、金はなくても「豊かな人生」を楽しんでいます.
(右/註7) 酒好き建築家のネイティブゲストには親近感を持ちました.


そして酔ってくると、息子や近隣人の私への苦言が思い浮かびます。
「贅沢してるとバチ当たるよ...子や孫のために貯金すべきだろ...」
私は「テヤンデー...これが俺の生き様だ」と呟きます。

 あの世には、金も名誉も持って行けないんだ...
 持っていけるのは、自分の「思い出」だけなんだ...
 自分なりの「思い出」作りに、夫婦で海外旅行したんだ...
 金は、子供に遺すより、自分の「思い出」作りに使いたいんだ...
 「思い出」作りは金がなくてもできるけど、たまたま使ったんだ...

そうした言い訳を繰り返し、適当に酔って、「みんな、ありがと」と
呟いて、気持ちよく寝ます。
その時、何故かフと寂しくなって、涙が溢れていることもあります。

私にとって、そうした貴重な「時」に導くTV番組は稀有です。
次のNHK「旅する○○語」は、どんな企画なのか...楽しみです。

170411
□□□□□
以下の画像を加工しています.
(註1)「ebookjapan」
 https://www.ebookjapan.jp/ebj/380480/
(註2)「日々の出来事」
 http://jirokayo.seesaa.net/article/447902064.html
(註3)「Donna Nonnoの成長日記」
 http://nonno-nikki.seesaa.net/upload/detail/image/IMG_2579-thumbnail2.JPG.html
(註4)「ebookjapan」
 https://www.ebookjapan.jp/ebj/380478/volume20160921/
(註5)「skymods on Ttwitter」
 https://mobile.twitter.com/skymods/status/812935357972942848
(註6)「NHK出版」
 https://www.nhk-book.co.jp/pr/text/gogaku.html
(註7)「こうはんの日々」
 http://ameblo.jp/1-1-pi-su/entry-12245854385.html



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暮らし/雑草-13 道端で早春を喜ぶ雑草たち

2017/03/31 10:47
変人の暮らしと、少々毒のある雑観です.
□□□□□
春分の前後から、拙宅前の道端の草たちが花を咲かせ始めました。
その多くは誰にも気付かれず、ひっそりと咲いています。

机の窓から、風に揺れる花たちを眺めていると、花粉症が酷くて外に
出たくない私も、道端の花たちと一緒に、早春を楽しめます。

画像
毎朝「今日も頑張れよ」
と声を掛け、枯れたら
「綺麗な花を有り難う.
ご苦労様」と胸の中で
声を掛けます.
変人ゆえの奇行です.

雑草でも、大きな花となると、時々チラリと見ていく人がいます。
ベビーカーを押して散歩する若い夫婦は「春だね...」「そうね...」と
笑みを浮かべて、見ながら通り過ぎて行きます。

ヨチヨチ歩きの女の子は、水仙をしゃがんで眺め、「綺麗ね」と言い
摘み取ろうとします。
でも、花はフェンスの外に咲いているので、採れませんでした。

母親の「汚いから止めなさいっ」の制止は興醒めでしたが、女の子の
仕草が「早春の妖精」が舞っているように見えてホッコリしました。

画像

直径1cmの花です.
道端にも、こんなに
綺麗な花を見つける
ことができます.

しかし、小さな雑草の花は、誰もその存在に気付かれません。
でも、春の陽の恵みを受けようと、しっかり空を見上げています。
道端で、そうした直径2ミリの花を発見した時は、その健気な容姿に
心打たれます。

何かお手伝いしようと思うのですが、私にできることは、少々の水を
あげることと、日陰にならないように邪魔しないことだけです。

「しっかり春を喜びなさいよ」と念じつつ、写真を撮りました。
道端にしゃがんで撮影していると、例の夫婦の嘲笑する声が聞こえて
きますが、逆に私は、その貧しき心が気の毒に思えてきます。

画像画像
(左) 直径2mmの花です. (右) 近づいて見ても綺麗な花です.


名を知らないその小さな花は、翌日は見当たりませんでした。
しかし、花は咲いていなくても、どこかで生きているはずです。
近くの他の草たちと見分けができなくなったのでしょう。

雑草の、大きな花も、小さな花も、同じように早春を喜んでいます。
その懸命に生きようとする姿は美しいです。
しかし、その花の咲く時間は短く、一瞬に近い出会いになります。

画像

見事な花を咲かせた水仙
ですが、やがては誰かが
「この汚い雑草は...」と
言いつつ、むしり取って
しまいます.

草花が、早春を喜ぶ瞬間も、ある季節と向き合う瞬間も、偶然に人と
出会う瞬間も、「一期一会」だと思います。
つまり草花は、毎年「同じ動き」を単に繰り返しているのではなく、
異なる「瞬間と場」に生きていると思うのです。

ですから、雑草が花を咲かせて早春を喜ぶ、命の輝く瞬間に出会えた
ことは、幸運だと思います。

その瞬間を、女房や近隣の人たちが目を向けてくれれば、少なくとも
その分だけは素敵な早春を喜ぶことができるのに...と思います。
私だけが、その瞬間を楽しむのは、もったいないです。

170331
□□□□□


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雑観/美術-13-2/2 フラ・アンジェリコ「受胎告知」-2/2

2017/03/21 10:07
雑観/美術-13-2/2 フラ・アンジェリコ「受胎告知」-2/2
*****
変人の暮らしと、少々毒のある雑観です.
□□□□□
サン・マルコ修道院の「受胎告知」は、2階の廊下の、階段を上った
先の壁面にあります。

円光と天使の翼以外に、神性の象徴のない舞台で、マリアと天使が、
両手を胸に合わせて、互いに見つめ合っています。
日常空間に神と人が出会って「受胎告知」する瞬間です。
「受胎告知」は、多くの画家が繰り返し描く有名なテーマなのです。

そんな重要な絵を、なぜ狭い廊下の、暗い階段を上った正面に描いた
のか、フラ・アンジェリコの意図が理解できませんでした。
正面から絵の全体は見えないし、絵を見ていて他の人に接触すると、
階段を転げ落ちる危険性のある位置にあるのですから。

画像

暗い階段を上がる時に、
「受胎告知」が真正面に
輝いて見えます.
絵に見とれながら階段を
上がると、人にぶつかり
そうな位置にあります.

暗い階段の先の上方に、「受胎告知」が輝いて見えます。
階段を上がりながら、自分が「受胎告知」の舞台の中に引き込まれて
いくような気がしてきます。

「受胎告知」の場面は、一点透視図法で描かれています。
一点透視の焦点は、マリアと天使を結ぶ視線に直交して、奥の廊下の
小窓付近にあるように見えます。

つまり、「受胎告知」に上昇する階段の空間は、「受胎告知」の一点
透視の焦点に収斂していくのです。
ですから、絵の中に吸い込まれていくような感覚があるのです。

この暗い階段は、人の意識を、現実空間から異次元の「受胎告知」の
舞台に投射する装置であるのです。

画像

一点透視の焦点の小窓は、
舞台空間の奥行きが深い
ように意識させます.

絵画は「正面に立って、静的に鑑賞するもの」とは限らないのです。
移動しながら、鑑賞するアプローチもあるのです。
危険性はありますが、全く回避できないほどではないようです。

フラ・アンジェリコは、階段を上がりながら、「受胎告知」の空間に
入り込む効果を期待して、この場所を選んで描いたのだと思います。

ために、階段を上がる人は、神と人が出会った瞬間の場面に立ち会う
ことができるのだと思います。

画像
(註02)
階段は絵に集中して上昇
するので、自分が「受胎
告知」の場に迎えられて
いくような気がします.

この「受胎告知」の絵は、「透視図法を駆使して合理的な空間を設定
している」と、多くの解説で説明されています。

しかし、人物と建物を比べて見ると、幾何学的な遠近関係を無視して
人物が非常に大きく描かれているのが判ります。
マリアは、立ち上がると、テラスの外にスムースには出られません。

最初は違和感なく見ていましたが、落ち着いて観ると、スケール感が
正常ではないことに気がつくのです。
「合理的な空間が設定されている」とは思えないのです。

画像

階段を上がって絵の前に
立つと、神と人が出会う
奇跡の舞台の登場人物に
なるような気がします.

もし、透視図法やスケール感が、写真のように正常に描いてあれば、
世俗性や日常性が勝って、「受胎告知」という奇跡の場の感覚表現が
希薄になると思います。

人の眼はカメラのレンズとは違いますから、非日常的な感動の場面に
直面した時は、空間は誇張され歪んで見えるのが自然です。

だとすれば、「受胎告知」の空間とは、何気ない日常に起きた一瞬の
「奇跡の空間」ですから、そこに登場するマリアと天使は、存在感を
強調した表現になるのは自然です。

さらにイメージすれば、このスケールアウトした絵を違和感なく観て
いる、ということは、絵の中の舞台空間のスケールに同化した状態で
あると思えてくるのです。
つまり、この絵を受け容れる人は「受胎告知」の現場にいて、奇跡を
目の当たりにしているのです。

フラ・アンジェリコは、そのような絵画と階段の造る一瞬の「奇跡の
空間」を製作したのだと思うのです。
荒唐無稽のイメージなのかも知れませんが、暗い階段の途中で、少し
立ち止まって観ていた印象を反芻すると、そのように思われます。

画像
(註03)
異端とされた書物を焼却
している様子です.
(15世紀の絵画)
サヴォナローラが多くの
美術などを焼いた事件も、
この絵に似たような状況
だったかも知れません.

フラ・アンジェリコがサン・マルコ修道院の二階廊下に「受胎告知」
を描いてから40年後の、1482年、ジロラモ・サヴォナローラがその
修道院に赴任します。

彼は、反メディチ家の市民に熱狂的に迎えられ、贅沢や虚栄の排除を
主張しました。
そして、フィレンツェの美術品、書籍、化粧品などを、シニョリーア
広場に集めて焼却しました(「虚栄の焼却」1497年)。

そんな時期に「受胎告知」が無事だったのは奇跡だと思います。
もしかしたら、フレスコ画だから壁から剥がすのが大変だったのかも
知れません。
あるいは、サヴォナローラが、「奇跡の空間」を造るこの絵の価値を
認めていたから、なのかも知れません。

170321
□□□□□
(註01)「remove」の画像を加工しています.
 http://remove.jugem.jp/?eid=223
(註02)「クレヨン画・ガラス絵・美術展・ヨーロッパの旅」の画像を加工しています.
 http://blogs.yahoo.co.jp/yasumu2002/folder/477384.html?m=lc&p=4
(註03)「wikipedia」の画像を加工しています.
 http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_book-burning_incidents



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雑観/美術-13-1 フラ・アンジェリコ「受胎告知」-1

2017/03/10 11:50
変人の暮らしと、少々毒のある雑観です.
□□□□□
フィレンツェの中心の「ドゥオモ」から北方向に600mほど歩くと、
「サン・マルコ修道院」があります。

ここにフラ・アンジェリコの「受胎告知」が展示されています。
私が観たのは20数年も前のことですが、その時の印象は今でも鮮明に
残っています。

画像画像
(左)サン・マルコ修道院(美術館)二階の僧房から見た中庭です.
(右)中庭の一角にもフラ・アンジェリコのフレスコ画があります.


「受胎告知」のフレスコ画は、2階の僧房の廊下、階段正面の壁面に
描かれています。
フラ・アンジェリコと愛称される画僧、グイード・ディ・ピエトロ
(Guido di Pietro/1395-1455)の、48歳(1443年)頃の描画です。

フラ・アンジェリコ(Fra Angelico)とは、「天使のような修道士」と
いう意味です。
彼は、祈りながら絵筆を取り、時に涙を流しながら描いていました。
ベアト・アンジェリコ(Beato Angelico)「天使のような幸福なる者」
とも呼ばれています。

画像

僧房に上がる階段の先に
「受胎告知」があります.

「受胎告知」は、天使が少女の住む家に訪れて受胎を告げるという、
新約聖書のエピソード、超常現象の舞台を表現した絵画です。
その現象の絵画表現には、繰り返し描かれるうちに、様々な約束事が
形成されていきました。

しかし、フラ・アンジェリコがここで描いた「受胎告知」には、この
テーマの伝統的な約束事が描き込まれていません。
神、精霊を意味する鳩、書物、白百合が描かれていないのです。
天使も、命令的に告知しているような仕草ではありません。
「受胎告知」の舞台構成が、簡素化されているのです。

画像

天使の背後の、左側の
窓からくる光が天上の
光のように見えます.

彼は何故、構成を単純化して「受胎告知」を描いたのか、その理由が
いくつか説明されています
・修道院内の、瞑想の生活になじむような構成にするため.
・フレスコ画だから、漆喰が乾く前に早く描くため.
・遠近法や暗の効果を高めるため.
・深い精神性を醸成するため.

ナルホドとは思うものの、まだ、釈然としない消化不良が残ります。
私には、故意に、聖なる象徴を最小限に描いて、世俗的な人間空間に
近い舞台を用意しているような気がするのです。
いつものように、些細な思い違いなのかも知れませんが...。

画像
(註)
円光と翼の他には神性の
象徴はありません.
しかし、神と人の出会う
空間の、静謐な雰囲気が
感じられます.

この「受胎告知」では、マリアも天使も、両手を胸に合わせて言葉を
交わさず、互いに眼を見つめ合うだけの場面が描かれています。
そこには言葉も小道具もありませんが、互いにすべてを理解し合えて
いるような雰囲気が感じられます。

そして、仮に円光と天使の翼が描かれていなかったら、単なる訪問の
挨拶の場面に見えるのかというと、そうでもないのです。
神性の象徴がなくても、この空間には、日常的ではない、穏やかで、
静かな、質素だけども品の高い雰囲気が感じられます。

すると、この舞台は、日常の人の空間が、ある時にフッと、非日常の
神聖な空間が重なってきた場面であるように思われてきます。
そして、現実の空間に、突然に「神と人の出会い」が実現することが
あり得るように思えてくるのです。

つまり、フラ・アンジェリコは「受胎を告知する」場面だけを描いた
のではないと思うのです。
「教会堂内部だけでなく、人が普通に暮らす日常空間にも、神と人の
出会う瞬間がある」ことも、示唆しているような気がするのです。

170310
□□□□□
(註)「wikipedia」の画像に加筆しています.
 https://ja.wikipedia.org/wiki/フラ・アンジェリコ



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暮らし/健康-10 レーザーで白内障の目玉焼き

2017/03/03 09:50
変人の暮らしと、少々毒のある雑観です.
□□□□□
昨年の暮れになって、右目の翳みがひどくなりました。
視野に白濁した部分が出て、視力も落ちてきたのです。

私は、5年前に白内障の手術を受け、以降は、無事に視力も回復し、
両眼とも良好な状態に戻って、快適に過ごしていました。

ですから、今度の目の症状は、白内障とは違う別の病気を発症して、
それが目に現れてきたのかもしれないと心配しました。
内科系の病気なのか、または泌尿器系の病気なのか、心当たりはない
ものの、次第に落ち着かなくなりました。

画像

診療明細の一部です.
「後発白内障」は白内障の
手術後に、水晶体の後側が
混濁する症状です.
治療が必要なほどの症状に
なる人は1〜2%だそうです.

ついにパソコンの画面が見づらくなったので、女房に相談しました。
彼女は内科医院でパートで働いているので、医療については私よりも
詳しいのです。

「この不良老人が...どこで遊んでんだかね...私が働いている時に...」
女房は、冗談で脅しているのか、泌尿器系の病気だと言いました。
最近、性病の疑いのある患者が来院したらしく、「流行っているから
気をつけなさいよ」と揶揄して笑っていました。

私は、潔白を証明するためにも、まず、白内障の手術を受けた眼科を
受診しました。

診断結果は、私の右目は、また白内障でした。
白内障は、5年前の手術で完治したと思い込んでいたのですが...。
私の眼には人工のレンズが入っているのですが、今回は、その周りに
白濁点が発生した「後発白内障」なのだそうです。

医師は「すぐ手術しましょうか...」と軽く言いました。
5分間程度で簡単に済む、日帰り手術なのだそうです。
レーザー光線でいくつかの白濁点を焼いて消すのだそうです。
泌尿器系の病気でないことが判明して安堵しましたが、また手術...。
5年前の手術を思い出して怖くなり、身体が硬直してきます。

画像
(註1)
眼科医院の待合室です.
患者は高齢者が多くて、
ここでは私は「若者」の
部類にはいります.

「(こころの)準備が...」と言いかけたら、「4,5千円で済みますよ」と
私の胸の内と財布の中を見透かしたように、医師は軽く言いました。
ここで逃げたら男の恥だと覚悟して、「では...お願いしましょう」と
冷静を装って応えました。

待合室で待機していると、自分でも情けないほどに、落ち着きがなく
なっていきます。
「レーザーで目を焼くのか...」と何度も考えていたら、看護婦さんが
来て麻酔薬を点眼してくれました。

「とうとう目を焼くのか...」と恐怖心が頂点に達して、「目玉焼きは
痛いですかね...」と、不覚にも失礼なお尋ねをしてしまいました。
彼女は少し笑って「怖くありませんよ」と優しく諭しましたが、また
さらに気分は落ち込んでいきます。

画像
(註2)
「YAGレーザー装置」です.
「後発白内障」の治療に
使用される機械です.

手術コーナーまでどのように歩いたか覚えていませんが、暗い室内の
レーザー装置のそばで医師が待っていました。
暗闇にボーと浮かぶ白衣を見ると、ゾクッとして足がすくみました。

医師は、私が瞬きしないように、直径2cmほどの筒を右目に当てて、
機械を操作しました。
カチャの音がするたびに赤い光が見えて消えますが、これがレーザー
光線なのでしょう...初めて真正面から見ました。

瞬きを防ぐための筒の圧迫感はありますが、麻酔が効いているので、
目玉焼きの痛さは感じませんでした。
数時間のような5分間ほどの手術は、そうして終わりました。

画像
手術後の目の炎症を防ぐ
点眼薬を10日間ほど使い
ました.
名の通り、粘り気の強い
薬ですから、滴を落とす
タイミングが難しいです.

おかげさまで、右目の翳みはなくなり、視界がクリアになりました。
女房は「だから、早く行けばよかったのよ」と言います。

たしかにそうなんですが、「病院」と聞いただけで怖気付いてしまう
私の性質は、老いてもなお強くなるばかりです。
「手術」の二文字が思い浮かべて、私は平常心を失ってしまいます。

女房に「度胸なし...」と謗られながら、熱燗で一人酒しつつ、小泉元
総理が優勝した貴乃花への賛辞を借りて「恐怖に耐えてよく頑張った、
感動した!」と心中で自分を賞賛しました。

170303
□□□□□
以下の画像を加工しています.
(註1)「大宮はまだ眼科」
 http://www.omiya-hamada.com/facility
(註2)「米倉眼科」
 http://www.yonekuraganka.jp/inspection/yag.html



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雑観/スポーツ-07 フィギュアスケートの「演技」

2017/02/21 11:53
変人の暮らしと、少々毒のある雑観です.
□□□□□
女性からのバッシングを覚悟で申せば、私は、フィギュアスケートは
どうしても好きにはなれません。
「それは若くてスタイルの良い美男美女に対する老人の嫉妬だ」と、
羽生結弦ファンの女房は言います。

しかし私は、スケーターの誰某を嫌いだと、いうのではありません。
男女を問わず、「演技」が好きになれないのです。

スケーターが、下から上目遣いで睨みつけたり、悲しい顔で悲壮感を
漂わせるなど、過度な自己陶酔は見るに堪えないのです。
試技を終えて「僕は苦しみに負けずに頑張ったよ...」とハァハァ喘ぐ
辛そうな様子も、同情を誘い媚びているようで、見たくないのです。

画像

(註1)
歌舞伎役者のような
「決めポーズ」には、
自分が気恥ずかしく
なって目のやり場に
困ってしまいます.

精一杯頑張ったのであれば、息遣いが少々乱れても、悔いが残っても、
表情には爽やかな印象が感じられます。
気の毒なほどの悲壮感を残していくスケーターが多い中、稀にいる、
そうしたスケーターを見ると、嬉しくなります。

意味不明な悲壮感や怒りも自己陶酔も「演技」の一部でしょう。
しかし、それが老若の女性には「胸キュン」でも、私の如き変人には、
悪く言えば、その媚びた「計算高さ」に興醒めします。

画像
(註2)
老若の女性には喜ばれる
「演技」でしょうけど...
私には薄気味悪く見える
「睨み」です.

フィギュアスケート競技では、「技術」だけでなく「表現・印象」も
評価されるので、「演技」は重要な試技要素なのかもしれません。
だから「フィギュア」と称しているのかもしれません。

しかし、嫌味や滑稽を感じるほどに「演技」しなければ、「技術」が
高く評価されないのであれば、競技自体に疑問が持たれます。

今のところ、芝居っ気のないフィギュアスケートを観覧できるのは、
練習風景しかないのかもしれません。
練習風景は採点されないので、「演技」しないからです。

画像
(註2) 日本人スケーターには、彼らの表情に似たような「演技」を
 見せたがる人が多いような気がします.


私は、フィギュアスケートの「演技」を見るたびに、映画「Shall We
ダンス」の竹中直人たちの演技を連想します。
「上目遣いで睨みつける」顔が似ているからです。

彼の演技が重なると、失礼ながら、フィギュアスケートの「演技」も
滑稽に見えてきます。
しかし、そうした見方をする自分に嫌気がさして、失笑します。

「カッコいい王子様に嫉妬している」と笑われても、TV画面から目を
外らすしかありません。

170221
□□□□□
以下のサイトの画像を加工しています.
(註1)「naverまとめ」
 https://matome.naver.jp/odai/2139227198319259201
(註2)「ガールズちゃんねる」
 http://girlschannel.net/topics/554726/
(註3)「ディノスシネマズ」
 http://cinema.sugai-dinos.jp/pc/blog/detail.php?id=9670



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暮らし/日常-27 草花の防寒対策は笑い種

2017/02/10 11:52
変人の暮らしと、少々毒のある雑観です.
□□□□□
私は近隣の笑い者ですが、その理由の「冬季バージョン」です。
近隣とは、嘘を知る私が目障りなために、陰湿で小さなイヤガラセを
する「オレガ」夫婦と、その取り巻きの子分(奥さん)たちです。

彼女たちの笑い種は、拙宅の前庭と玄関に置く草花の防寒対策です。
夜間が零度近くまで冷える日は、私は草花の鉢をビニール袋で覆って
保温しているのですが、それが馬鹿げているのだそうです。

画像

冬季の前庭は殺風景ですが、
ここで散歩の人と、花木や
ミニトマトやイチゴなどの
話を聞いたりして楽しんで
います.

その防寒対策は、たまたま前を通った散歩の人から教わりました。
彼は、自宅で庭いじりを楽しむ、園芸に非常に詳しい人です。
私の素人っぽい草花の世話に興味を持った様子で、親しげに話しかけ、
冬を過ごす方策をいくつかアドバイスしてくれました。

プランターにビニール袋を被せると多少は保温できるので、寒い朝は
土の凍結や葉の萎れを予防できるのだそうです。

以来、最低気温が零度に近いという予報があれば、夕方の陽が落ちる
頃に、数個の植木鉢をまとめてビニール袋でカバーしています。
全部で28枚を被せます。

画像


雑な防寒対策ですが、
温室効果を期待して
います.

そして、翌朝、朝陽が差してきた頃に、カバーを外します。
ビニールの内側は濡れていて、土も湿っています。

雑な防寒対策ですが、草花たちが喜んでいるかも知れないと、勝手に
思って自己満足しています。

これが、「オレガ」夫婦と仲間の奥さんたちの「笑い種」なのです。
夫の「何の役にも立たねぇのによ、バカのことしてやんの...」の音頭
に合わせて、婦は「マッタク...ねぇ〜」と合いの手を打っています。

画像


殺風景な玄関前も、赤い
花が咲くと、それなりに
見栄えのするスペースに
見えてきます.

ある夕方、私が草花にカバーを被せていた時、「オレガ」婦と仲間の
奥さんたちが、私がまだ庭にいるのに気づかないで、近くで私を嘲笑
する掛け合いを始めました。

私は「飽きない人たちだな...」と苦笑しつつ、ムックリ立ち上がって
塀の上から顔を出しました。
少し驚いて気まずくなった奥さんたちは、薄笑いする「オレガ」婦を
残して、スーッと姿を消していきました。

数後日、私がプランターにビニール袋を被せて善人ぶっていること、
盗み聞きしていること、そんなデマが周辺に流布されたようです。
この地域にも、「オレガ」婦と似たような生き方をしてきた人が多い
ですから、デマは効果的に広まったようでした。

画像



初めて見る人は、異様な
塊に驚くかも知れません.

私がデマに反応すれば逆効果になるので、静観しています。
慣れたせいか、悔しい気持ちは大分少なくなりました。
ただ、ある方のアドバイス通り、できるだけ正確に記録しておく方が
いいのかも知れない...と思っています。
このブログは、そのためにも利用しています。

しかし、そんなことよりも、たまに、通りを歩く人が防寒ビニールを
被せた様子を見て、「草花が喜んでいますね」と言ってくれます。
嬉しくなります。

デマを聞いたであろう奥さんの中にも、「オレガ」夫婦の嫌がらせを
知らない女房に「これって、いいですね」とコッソリ言っていく人も
いるようです。

地域には、草花に被せた防寒ビニールを「笑い種」にする人もいます。
「いいね」と思う人もいるし、無関心な人もいます。
人格の貴賎をいう訳ではありませんが、豊かな気持ちで過ごすために、
その人なりの気持ちの有り様は様々です。

170210
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雑観/美術-12-2/2 クラナッハの怖い絵とヌード

2017/02/06 10:07
変人の暮らしと、少々毒のある雑観です.
□□□□□
クラナッハ展には、「誘惑する絵ー"女のちから"というテーマ系」と
いう展示スペースがありました。
そこに有名な「ホロフェルネスの首を持つユディト」があります。
勇猛な武将を油断させて惨殺した女性の絵です。

画像

(註01)
「ホロフェルネスの首を
持つユディト」1530年頃

一度見たら忘れられない
凄みのある絵画です.

「女性の性的な誘惑は、屈強な男性をも破滅させることができる」と
いう意味を表現していると説明されています。
神話や寓話で、古来から男性に戒められてきた教訓です。

「ユディトの艶かしい肌、醒めた眼差し...これが非常に色っぽくて、
生々しいリアルな表現との対比が美しい緊張感を醸し出している」と
大方の解説では「官能性」に注目しています。

しかし、彼女が妖しい雰囲気を漂わせているのは、単に、先ほどまで、
ホロフェルネスを性的に誘惑していたから、ではないでしょうか...。
ユディトは、賢明で勇敢な美貌の女性です。
いつもこうした性的な魅力を振りまいていたとは思えないのです。

女性の性的魅力は「女のちから」であるのかどうか...分かりませんが、
この絵は「女のちから」のテーマで展示されています。
女性からのクレームはないようですが、何となく奇異に感じるのは、
どうやら私だけのようです。
性的魅力の「女のちから」というと、「努」の字を連想するからです。

画像画像
(左/註02) 1530年.(非展示作品です)
(右/註03) 1530年.(非展示作品です)
 分業で製作されるので、女性の顔以外のパーツはよく似ています.


クラナッハは、これに似た絵を、10点以上も繰り返し描きました。
この一連の絵画は、クライアントの女性を「ユディトのように勇敢な
美女」に見立てた、貴婦人の肖像画である、という説があります。

肖像画だとしても、先掲の「ユディト」の絵は、残酷な情景を凄みの
ある妖美に仕上げた、肖像画を超越した秀逸な作品だと思います。

「この絵は観る者を不安にさせる」という評価もあります。
しかし、私は、女性の高貴で毅然とした姿勢に、「不安」ではなく、
「'死'と隣り合わせにある、美しくて時に残酷な'生'」を想いました。

画像

(註01)
「ヴィーナス」1532年

「君は偏見を捨てて直視
する度胸があるか...」と
試されているような気が
します.

クラナッハといえば、やはり...ヌード画に興味が持たれます。
ルネサンス時代の人体表現は、様式化した図式から脱却して、人間の
理想的な体型を解剖学的に正確に描いていました。
しかし、クラナッハのヌードは、どうみても現実的ではないのです。

腰のクビレが、異常に高い位置、バストのすぐ下にあるのです。
その不自然なプロポーションは誰もが指摘しますが、不自然な体形で
描く理由については、まだ十分な解説はないようです。

そして、モデルのほとんどの顔が、表情が画一的に見えます。
故意に、女性の個性を消しているように思えるのです。
つまり、女性の肢体だけに注目させているように思えるのです。

そして「目のやり場に困るよ...だけど見たいよ」と躊躇します。
すると、「誰かに押し付けられた偏見を捨てろ...」と、クラナッハの
囁く声が微かに聞こえてくるような気がします。

画像
(註04)
「ルクレツィア」1533年

「写実性に劣る」という
批判もあるし、「多彩な
感情が読み取れ、深みが
ある」と絶賛する意見も
あります.
ともあれ、素直に楽しみ
たいと思います.

ヌードモデルの多くは、一枚の透明なヴェールをまとっています。
多くの解説では「16世紀のドイツに、99%透ける布地は存在しない」
「透明ヴェールは、エロティシズムを強調するために、クラナッハが
考え出した」と説明されています。

確かに、そうしたヌード画を観ていると、「スケべ心」が妄想を駆り
立ててきます。
すぐに「これは芸術なんだから...」と慌てて妄想を打ち消そうとする
と、「そのままでいいんだよ...」と、クラナッハの穏やかな囁き声が
聞こえてくるような気がします。

通常の服装ではなく、眼前の裸体の一部を布で隠されたら、透視して
みたいと思い、全裸のイメージにトライするのが自然です。
その健康な「スケべ心」は隠す必要はない、と彼は囁くのです。

クラナッハは、ヌード画を観せて「眼前の物事を素直に見ろ...誰かが
押し付けた価値観に束縛されないで、自分の眼で自由に考えろ...」と
メッセージしているように思います。

形式や技巧ではなく、そうした眼を持つことこそが「ルネサンス」で
あるように思います。

画像
(註05)
「正義の寓意」1537年

裸体は、裁きの場で「隠さ
ない」ことを象徴している
そうです.
では、「透明ヴェール」は
どのように解釈されるのか、
しかし、これは未詳です.

ヌード画は、透明ヴェールだけでなく、裸体に綺麗な髪飾りやネック
レスを着けて描かれています。
そうした装身具は、ヌードのエロティシズムを強調するための小道具
であると説明されています。

しかし、別の見方もできるように思います。
クラナッハが、ヌードを盛んに描き出したのは、60歳の頃でした。
「老いてなお盛ん...」というのではなく、社会常識に安易に迎合する
風潮を憂えて、営利を兼ねた彼なりの方法で、「個性の忘失」に警鐘
していると推測します。

そして、65歳から7年間も市長を勤めるほどの人格者です。
季節外れの「スケべ心」を出して、ヌードに異常な興味を持ち、妄想
好きの貴族相手に、金儲けに邁進したのではないと思います。

「現実的」に描かれた装身具は、表情の乏しい顔や眼、異様な体形の
「非現実性」と対照的です。
すると装身具は、エロティシズムではなく、その女性像が非現実的な
存在であると認識させるための「装置」であるように思えてきます。

裸体の「非現実性」は、何かを象徴しているように思わせます。
それは「自分の眼で物事を素直に見て、自由な精神と自分の価値観を
失わない」こと、であるように思います。

彼は、「社会の常識」ではなく、「自分の感性」を大切にするように
促していると思うのです。
クラナッハは、「矛盾・エロティシズム・商業主義の画家」であると
評価されますが、私は「個性の画家」であると思いました。

画像  画像

(左/註06)「十一面観音仏龕」/703年/東京国立博物館蔵
(右/註07)「観音菩薩立像」/7世紀(白鳳時代)/鶴林寺蔵(兵庫県)
 観音様は女性の姿で表現されることが多いようです.


クラナッハのヌードを初めて見た時、不謹慎ながら、私は観音立像を
連想しました。
薄衣をまとって大胆に肌を露出し、腰のくびれが艶かしい観音像は、
見ようによっては、妖艶に見えなくもないからです。

そして、観音像の象徴する「慈悲と救済」が、クラナッハの裸体画の
象徴する「束縛されない価値観」に重なってきます。
「自由な感性は、自分を救済する」という想いが浮かぶのです。

しかし、ここまで想像すると、さすがに飛躍し過ぎです。
我ながら呆れて苦笑しつつ、薄暗い空間でヌードを眺めていました。

画像
東京国立博物館の本館前で
開催された「獅子舞」です.
"東都葛西囃子中村社中"の
演舞で、獅子を舞っていた
のは美顔の女性でした.

色々と想いを巡らせてクラナッハの作品を見ていたら、私がヌードを
凝視していると思ったのでしょうか、突然、背後から女房が「ヤケに
熱心に見てるね...」と声をかけてきました。

飛び上がるほどビックリしましたが、「これから獅子舞を見に行こう
かと考えていたんだ」と、咄嗟のデマカセでごまかしました。

「獅子舞」は、東京国立博物館で開催される新春イベントです。
会場の本館前は、邦人外人の大勢に囲まれました。
見えないので、少し離れてカメラの望遠レンズを通して眺めました。

獅子舞は、悪魔を払い幸せを招く、縁起の良い演舞です。
大黒様も金色の紙吹雪を振りまいて、歓声を巻き起こしていました。
この一年、財はなくても、無事に暮らせるように祈りました。

170131
□□□□□
以下の画像を加工しています.
(註01)「クラーナハ展ー500年後の誘惑」
 https://twitter.com/tbs_vienna2016/status/795254736236576768
(註02)「壺齋散人の美術批評」
 http://art.hix05.com/cranach/cranach12.judith.html
(註03)「美術館訪問記-182 バレル・コレクション」
 https://redrb.heteml.jp/naganoart/nagano_art_182.html
(註04)「あいむあらいぶ」
 http://blog.imalive7799.com/entry/Lucas-Cranach-201610
(註05)「Internet Museum」
 http://www.museum.or.jp/modules/topics/index.php?action=view&id=875&Rcolumn_tpc
(註6)「letuce's room」
 http://letuce.at.webry.info/201406/article_7.html
(註07)「静岡市美術館」
 http://www.shizubi.jp/blog/cat37/




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雑観/美術-12-1 矛盾の画家ークラナッハ

2017/01/20 10:47
変人の暮らしと、少々毒のある雑観です.
□□□□□
初詣は、例年だと二日に、西日暮里駅から東京メトロ千代田線に乗り
換えて「根津神社」に詣でます。
しかし、今年は陽気のせいで女房共々電車で熟睡し、目が覚めた時は
上野駅に到着する手前でした。

画像画像
(左) 国立西洋美術館 (右) クラーナハ展チケットと国立博物館入場券


慌てて降りましたが、ここで後戻りは癪だし、上野まで来ましたから、
国立西洋美術館の「クラーナハ展」詣でに変更しました。
女房は何故かクラナッハに興味があったし、私は美術館の喫茶室から
中庭を見るのが好きだったので、変更はすぐに決まりました。

画像 画像
(左/註01)「77歳の時の自画像」/1550年
(右/註02)「マルティン・ルターの肖像」/1525年
 クラナッハは、65歳から72歳までの間、宗教改革の本拠地である
 ルターシュタット・ヴィッテンベルク市の市長を勤めました.


ルーカス・クラナッハ(Lucas Cranach/1472-1553)は、ルネサンス
時代のドイツの画家です。
若い頃は、多くの祭壇画や宗教画を描いていました。

クラナッハが45歳の頃、彼より11歳若いルターがカトリックの堕落
を鋭く指摘して宗教改革を起こしました。
クラナッハは、絵画を通してこの運動を熱心に支援しました。

画像(註03)「泉のニンフ」
1537年

左上のラテン語は「眠りを
邪魔しないで」という意味
です.  しかし、ニンフは
薄目で「官能への誘惑」を
象徴するウズラを見ています.

一方で彼は、ルター派とカトリック派の両方から注文を受け、貴族の
喜びそうな女性のヌード画を製作していました。
クライアントが誰であろうと、神話などに登場する女神の姿を借りて、
売れ筋のヌードを迅速に生産し大量に販売していたのです。

彼の工房では、大勢の職人が絵画のパーツごとに分業する、効率的な
量産体制が確立していました。
クラナッハは、ヌード画産業の優秀な経営者だったようです。

画像
(註01)「三美神」/1531年
/ルーヴル美術館蔵
(非展示作品)

プライペートな室内で観て
楽しむ作品(37x24cm)です.
心が浄化されるという評価
もありますが、私は逆に、
扇情されそうです.

清貧あるいは激情的な生き方を「芸術家」に求める向きにとっては、
クラナッハは、金儲け主義で、節操のない不道徳な「矛盾の画家」に
みえますから、嫌われる傾向があるようです。

だからでしょうか、同じ世代のデューラーやミケランジェロよりも、
知名度は低いようです。
日本で開催されるクラナッハ展は、今回が初めてなのです。

画像 画像
(左/註04)「不釣合いなカップル」/1530-40年
(右/註05)「不釣合いな恋人」/1530年/個人所蔵. (非展示作品)
 右図の娘は、愛嬌笑いしながら、老人の財布に手を入れています.
 これは、人間の浅ましさを描いた風刺画だと解説されています.
 しかし、それは当時の貧しい女性が生きていくための方法でした.
 人間解放を謳うルネサンス社会の陰の現実を見せた悲しい絵です.


しかし、人は時に不条理を生き方をするものだし、宗教とてそうした
人々が編成して運営する組織ですから、「矛盾」はあって当然です。

「矛盾」は、人間らしくあるために備わった一面であると思います。
ですから、クラナッハの画風に好みはあって当然ですが、嫌う理由に
少なくとも「矛盾」は当たらないような気がするのです。

むしろ、人の心の深層に必ずある、弱さや素直さ、割り切れなさを、
優しく肯定しているように感じることができると思います。
人の心のモロさを、茶化して嘲笑しているとは思えないのです。

画像
(註02)
「ヘラクレスとオンファレ」
1537年

身に覚えのある方は、内心で
赤面するような絵です.

クラナッハは、「情けない男の絵」や「スケべな絵」を見せて、湧き
出る男性の心情を揶揄しているのではないと思います。
「スケべ心」をくすぐられる時、「そうだよね...それでいいんだよ...
お互い様だ」と言う、彼と工房のスタッフの笑い声が聞こえるような
気がするのです。

170120
□□□□□
以下の画像を加工しています.
(註01)「ウィキペディア」
 https://ja.wikipedia.org/wiki/ルーカス・クラナッハ
(註02)「クラーナハ展ー500年後の誘惑」
 https://twitter.com/tbs_vienna2016/status/795254736236576768
(註03)「フリー絵画・版画素材集」
 http://free-artworks.gatag.net/2013/10/06/070000.html
(註04)「国立西洋美術館」
 http://www.nmwa.go.jp/jp/exhibitions/2016cranach.html
(註05)「LEMOVE」
 http://ameblo.jp/remove/entry-11151283213.html



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暮らし/日常-26 年賀状は版画ですが...

2017/01/10 11:45
変人の暮らしと、少々毒のある雑観です.
□□□□□
私は40年ほど前から、断続的ですが、年賀状は版画で作っています。
雑な彫りですが、版画だと下手な字に合うような気がするからです。

ただし、クリスマス以前に「謹賀新年」を彫り始めるのは、どうにも
気が乗らず、シャンパン気分が抜けた頃に図案を考え始めます。

ですから、年内に投函できるのは、親戚用の十数枚です。
大多数は年明けて完成するので、失礼ながら、頂いた年賀状に返事を
出すような形になってしまいます。

版画の図案の多くは、ルネサンス・バロックの絵画から借りています。
例えば「受胎告知」だと、マリアと天使は彫らないで、背景と椅子と
翼をデフォルメして作ります。
「今年も良き徴がありますように」という願いを込めているのです。

画像


(註) 「蛇王のステラ」
ルーヴル美術館.
古代エジプト/BC.3000頃
「ジェット王がホルス神を
継承して王宮に君臨する」
という意味の石碑です.

そうした私の版画・年賀状は、大方には大不評です。
おめでたい図柄や干支ではないので、意味不明なんだそうです。
年賀はがきに「謹賀新年」を彫っているので、かろうじて年賀状だと
認識できるのだそうです。

それを面と向かって言われると、私はイジケて何も言いません。
ただし、丁寧に訊いてくる人には、図案の意図を説明します。

しかし説明しても、女房のように「ヘ...? ホ...」と怪訝な顔になる、
正直な人が大多数です。
私に気を使って、説明を求めない人も多いようです。

そこで今年は、差し出がましく、図案の意図を説明いたします。
今年の図案は、ルーヴル美術館/シュリー館で見た「蛇王のステラ」を
拝借しています。
ただし、老化のため手元がよく見えないので、かなり雑な仕上がりに
なってしまいました。

「蛇」を彫らないで、「ジェット王」の石碑の意味を消しました。
「宮殿」の形を、勝手ながら「都市」に置き換えました。
今年は酉年なので、「ハヤブサ」か「ハト」にみていただきます。

画像

版画の制作中は、何故か
昔の辛かった事や、悔し
かった事や、人を悲しま
せた事などを思い出して、
時々手が止まります.

そして図案は、「強権は平和な形をして都市を支配する」から転じて
「世間に流行る"常識"の本性を見極める年でありますように」を表現
したかったのですが、そのように理解して戴けると嬉しいです。

さらに転じて、「貴方らしい生き方の年でありますように」の意味に
まで解釈して戴けると本望です。
私が説明する時は、このメッセージまでを言いますが、やはり極端に
飛躍し過ぎだと思われているようです。

でも、そこまで深読みしなくても、単純に「平和のハトがやってくる
年でありますように」のように感じていただければ大満足なのです。

毎年恒例の現象ですが、版画が完成した途端に大風邪をひき、腰痛を
再発してしまいした。
この後、宛名やコメントなどを女房に書いてもらうことになります。

170110
□□□□□
(註)「ルーヴル美術館鑑賞記 2009」の画像を加工しています.
 http://4travel.jp/travelogue/10342091


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雑観/世相-11-3/3 海外では挨拶が大切だと実感した例-3/3

2016/12/20 10:47
変人の暮らしと、少々毒のある雑観です.
□□□□□
海外では、無愛想にせず、笑顔と挨拶が大切です。
挨拶のおかげで気分良く過ごせたことは、多くの方が経験されたと
思いますが、ここでは私の2例を紹介しています。

□□□□■□
エピソード-5 ーセキュリティチェックでー

画像

プランタン・デパートの
入口でも、屈強な黒人の
警備員が、簡単な手荷物
検査を行っていました.

パリでは、テロ発生の可能性が高いと言われる、東部や北部を避けて
オペラ座、カルツェラタン、シテ島近辺で行動しました。
どこでも、自動小銃で武装した警官のパトロールを頻繁に見ました。

空港や美術館、デパートなど、人が多く集まる施設では、当然ながら
セキュリティチェックが行われていました。
デパートでも入口と出口を分け、バッグの中を検査していました。
セキュリティチェックは、パリではすっかり日常化していました。

市民は、無言ながら、当たり前のようにチェックを受け入れています。
私も、チェックを受けることに、さほど違和感はありませんでした。
係員も慣れて、チェックする技術が上達したのかもしれません。
先に「ボンジュー ムシュー」と挨拶すると、比較的簡単に済ませて
くれるように感じました。

画像
パリ大審裁判所です.
画面の左側の奥にサント
シャペル教会(背側面)が
見えます.
画面左下の方に見学者の
行列ができます.

シテ島のサントシャペル教会を見学した時もそうでした。
有名な観光スポットですから、施設の入口前には長い列ができます。
私は行列は好きではありませんから、朝食を簡単に済ませて、グズる
女房をなだめながら、早い時間に見学者入口に向かいました。

開場の40分前に着いたら、幸運なことに、先頭は5,6人のイタリア人
らしき中年男女のグループだけでした。
彼らも行列が苦手なようで、警備の武装警官のチラ見を気にせずに、
次第に列を崩して、大声で陽気なお喋りをするようになりました。

ついに、彼らは待ちくたびれて、苛立ちを表すようになりました。
ヒンシュクをかいそうな苛立ちでしたが、百mほど続いた行列を振り
返って見ると、行列に慣れていない彼らの動き様は同情できます。

画像
サントシャペル教会の
正面側です.
聖堂内ではクラシック
コンサートが、頻繁に
開催されています.

予定にやや遅れて開場となり、入口の内部でセキュリティチェックが
始まりました。
大声で喋って怒りが収まらない調子のイタリア人グループは、厳重に
チェックされていました。

その隣で同時にチェックを受ける私は「この時こそ笑顔で」と思って
「ボンジュー ムシュ」、バッグを開けて両手を開きました。
すると、係員は「ボンジュー」と応え、すぐに「オーケー」です。

そして、後ろの女房を指して「一緒か?」みたいな英語で訊くので、
「ウィ ムシュー」と言うと、笑顔で「行っていいよ」の仕草です。

画像
ステンドグラスと天井の
装飾には圧倒されます.
小さな聖堂ですが秀逸な
ゴシックカテドラルだと
思います.

私たちは、誰もいない聖堂に最初に入ることができました。
笑顔と「ボンジュー ムシュ」の成果だと思います。
少し遅れて監視役の館員がやってきたくらいに、早い入館でした。

しばらくして、あのイタリア人グループが到着し、ステンドグラスを
見上げて、静かな歓声をあげていました。
程なくして、聖堂内は見学者でごった返すようになりました。

□□□□□■
エピソード-6 ー空港の搭乗口でー

画像
シャルル・ド・ゴール
空港です.
ウィーン空港に向かう
オーストリア航空機に
連結したボーディング
ブリッジです.

オーストリア航空にてパリから帰国する際は、シャルル・ド・ゴール
空港から、乗り継ぎのウィーン空港に向かいます。
ラウンジでの飲み食いに飽き、酔いも覚め、高価な物品を買う気力も
金力もないので、早めにD54ゲートに行きました。

搭乗開始時刻が30分ほど遅れていて、ゲートの待合いコーナー付近は
大勢の乗客で混雑していました。
椅子は空いていなくて、立って待ち疲れた乗客は苛立っていました。
グズる乳児を抱いて疲れた若い夫婦も立っていて、気の毒でした。

やっと搭乗券チェックが始まり、乗客はカウンターに殺到しました。
私は急ぐ女房を手で制して、乳児をあやすために列を外れていた若い
夫婦を手招きして、列の先を譲りました。
夫婦は私に笑顔を送って、ボーディングブリッジに向かいました。

画像
(註7)
多数の店舗が並ぶので
退屈はしないのですが、
かなり長い通路です.
到着時も出発時も混雑
していました.

カウンターには黒人の若くて愛らしい女性がいて、「ボンジュー」と
挨拶すると軽い笑顔で「ボンジュー」と小声で応えます。
簡単なチェックを終えて前を過ぎる時、彼女が私に「ボンボヤジュ」
と声をかけました。
彼女は誰にも無言でチェックしていたので、驚きました。

咄嗟のことですから、「メッシー ブュティ」(ありがと 美人さん
[...のつもり])と応えてしまい、ブリッジに向かいました。
すると彼女は、ブリッジを歩く私を振り向いて、さらに素敵な笑顔で
小さく手を振り「ボンボヤージュ」と軽く叫びました。

少し先で私をキッと睨んで待っていた女房が「何なの?」と詰問する
ので、これも咄嗟のことですから「若い夫婦に列を譲ったのを彼女が
見ていて、我々に好意を持ってくれたみたいだよ」と答えました。

私は「メッシー ブュティ」の挨拶が効果したのだと思っています。
おかげで、成田に到着するまでは気分良く過ごせました。
そして自宅に戻ってからは、女房は愛想の良い女性に、私は無愛想で
頑固な変人に...そういう日常に戻りました。

161220
□□□□□
下記の画像を加工しています.
(註7)「hungariannomad」
 https://hungariannomad.com/2014/08/01/austrian-airlines-business-class-paris-to-istanbul-via-vienna-business-lounge-vie/




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雑観/世相-11-2 海外では挨拶が大切だと実感した例-2

2016/12/10 12:45
変人の暮らしと、少々毒のある雑観です.
□□□□□
海外では、無愛想にせず、笑顔と挨拶が大切です。
挨拶のおかげで気分良く過ごせたことは、多くの方が経験されたと
思いますが、ここでは私の2例を紹介しています。

□□■□□□
エピソード-3 ーホテルでー

画像
宿泊したホテルで部屋です.
朝食に行くのが少し遅いと
清掃の女性がドアを開けて
"エンシューディゴン(失礼)"
と言います.

以前のブログで紹介しましたが、女房は、ウィーンのホテルで部屋に
バッグを置いたまま朝食に行き、どうやらその間に、財布の3万円を
こっそり抜き取られる、という大失態をやらかしました。
翌日パリに移動して、ホテルに着くまで気づかなかったのです。

彼女は、「財布とパスポートは肌身離さず」の原則は承知していたの
ですが、ウィーンの街歩きに上機嫌になり、つい気が緩んだのです。
私は「財布・パスポート・デジカメ」だけは、どんな時も離しません
から、そのような盗難被害の経験はありません。

しかし、仮に移民系の清掃員が出来心で掠め取ったとすれば、その時
私が施錠し忘れたスーツケースも、物色したはずだと思います。
でも、価値ある物がなかったのか、そんな形跡はありませんでした。

それだけでなく、室内は綺麗に整頓され掃除してありました。
疑えば、それはフェイクだと言えるかも知れません。
しかし私は、清掃の移民女性が出来心で盗んだとは思えないのです。
シャイな笑顔で挨拶する女性の出来心は、想像できないからです。
かなりの確率で、女房の思い違いか、落としたものだと思っています。

画像
(註6) 廻り階段の中心に
旧式のエレベータが2基
動いていました.
朝は、清掃の女性たちが
廊下と階段を頻繁に行き
来していました.

私は、ホテルでは、スタッフはもちろん、廊下で会う清掃の女性にも、
気がつけば私の方から挨拶するように心がけています。
しかし大抵はホテルの人たちの方が挨拶が早いのですが、その時は、
女房が笑うほど、できるだけ大声で大げさに挨拶します。

ピローチップも、毎朝、サイドテーブルに、若干多めに用意します。
女房は、最後の朝だけ、相場の低めを置けば良いと反対します。
さらに、私が毎朝しかも少し多めに用意するのであれば、自分の分は
置く必要はないと割り切っていました。

たしかに、女房の方が合理的でクールです。
だから、旅行費用を貯金できたのだと思い、感謝しています。

しかし私は、ピローチップも、挨拶の一つだと思っています。
メモ帳に「thank you for good service」など書いて、その紙を折り
たたみ、チップを挟んで置いています。
日本のホテルや旅館でも、同様にしてきました。

それは常識的ではなく、過剰な対応なのかもしれません。
しかし、傲慢な思い上がりになりがちな私の、感謝の表現なのです。

□□□■□□
エピソード-4 ー機内でー

画像
赤いスーツがよく似合う
金髪CAは、手先が少々
不器用で作業も遅いです.
でも日本人CAが上手に
サポートしているので、
サービスは良好です.

オーストリア航空が日本から撤退するというので、急遽、予定を繰り
上げて、撤退直前に旅行することにしました。
一度はオーストリア航空機に乗ってみたかったのです。
しかし、行きは台風9号、帰りは台風11号と一緒になり、ウィーンと
パリでは異常な酷暑に歓迎されました。

行きも帰りも、機内では、私たちのエリアは女性CAが担当でした。
少々年増ですが、真っ赤なスーツがよく似合う金髪の美人でした。
若いCAや日本人CAを統括する、チーフ格のオーストリア人です。

搭乗の際、彼女は、ドアの脇で乗客一人ひとりに挨拶していました。
ほとんどの客も、女房も、無言で通り過ぎて座席に急ぎます。
見た範囲では私だけですが、「グリュス ゴッ」と挨拶しました。
すると金髪CAは、小さく手を振って素敵な笑顔で返事しました。

実はその時、私は口パクに近い小さな声で「シェーネフラウ(美人さん
[...のつもり])」と付け加えていたのです。
親近感を込めた挨拶であって、老人のスケベ心ではありません。

私がドイツ語を話せると勘違いされると困るな...と心配していたら、
やはりその後は、よくドイツ語で話しかけられました。
凡そはカンで理解できますが、笑顔と片言の英語で対応しました。

画像フライング・シェフと
CAです.
母と息子みたいな良い
雰囲気です. シェフを
撮影すると、なぜか、
彼女の方が喜んでいま
した.

ウィーンはコーヒー文化の高い都市ですから、オーストリア航空では
コーヒーメニューは10種類も用意してあります。
私はできれば全種類を試飲すべく目論んできましたから、起きている
時間は、金髪CAに何度も注文しました。

その都度、彼女は嫌な顔せずに、両手で大事に運んでくれました。
「金髪美人のコーヒーは美味しい...?」と隣席の女房は皮肉りますが、
「そんなことは...ない」と応えつつ、心中では「全くその通りだ」と
楽しんで味わっていました。

全部は試飲できませんでしたが、本当に美味しくいただきました。
中でも「マリア・テレジア」と「フィアカー」が気に入りました。
どちらもホイップクリームがトッピングされ、リキュールかラム酒が
入っています。

飛行機を出る時も、私には笑顔で小さく手を振ってくれました。
10種類近くもコーヒーをお代わりした珍しい老人だったからなのか、
あるいは「グリュス ゴッ シェーネフラウ」の効果なのでしょう。

161210
□□□□□
下記の画像を加工しています.
(註6)「tripadvisor」
 https://www.tripadvisor.co.uk/LocationPhotoDirectLink-g190454-d206602-i193059620-Austria_Trend_Hotel_Astoria_Wien-Vienna.html


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雑観/世相-11-1 海外では挨拶が大切だと実感した例-1

2016/11/29 10:45
変人の暮らしと、少々毒のある雑観です.
□□□□□
私は人見知りをし、挨拶も上手ではありませんから、無愛想で頑固な
変人という印象を持たれています。
対して女房は、誰にも愛想よく挨拶し会話します。
愛想の良さは羨やましいのですが、これは長い時間に培ってきた性分
ですから、何とも仕方がないと諦めています。

ところが海外を旅行すると、その性分は逆転するのです。
私は、外国語は挨拶程度にしか話せないのですが、気軽に声を掛ける
ようになります。
対して女房は、人が変わったように、どこでも無言になります。

理由はよく分かりませんが、私の場合「外国では挨拶が欠かせない」
という教条が、どこかで刷り込まれているからだと思います。
たしかに、タイミングよく挨拶したために、気分良く過ごせたことが
多々あります。
ここで、私の2例を紹介します。

■□□□□□
エピソード-1 ー美術館でー

画像

ベルヴェデーレ宮殿です.
クリムトやシーレの絵画を
所蔵することで有名です.
出入口は正面中央の右側の
ドアです.

ウィーンの暑い日、ベルヴェデーレ宮殿を見学しました。
女房が、クリムトの「接吻」をどうしても見たいというのです。

チケット・オフィスは、長い列ができて、かなり混雑していました。     
私の前列の中国人の若い男性2人に順番がきて、彼らはカウンターの
女性に挨拶もなくチケットを要求し、急に何やら揉め始めました。

長い行列を無視し、身体をクネクネ動かし、料金を値切るような話を
ネチネチと続けているのです。

我慢して丁寧に対応していた女性の表情が険しくなった瞬間、彼らは
ソソクサとチケットを握って出て行きました。
気不味いイヤーな雰囲気が残りましたが、次は私の番です。

努めて笑顔で「グリュス ゴッ」と挨拶して、チケット2枚を得て、
「ダンケ シェン」と言うと、「ビテ シェン」と返ってきました。
彼女は、先ほどとは別人のような素敵な笑顔です。
笑顔のおかげで、オフィスに和やかさが戻ったような気がしました。

画像画像
(左/註1) チケットオフィスを見過ごして先に行く人が多かったです.
(右/註2) 私が並んだ時はドアの外まで混雑していました.


ウィーンにも東洋人種を差別する人の多いことは知っていましたが、
初対面で挨拶もなく迷惑行為をする東洋人であれば、差別ではなく、
区別されて然るべきだと思いました。

宮殿内に入る時も、無愛想な男性係員に「グリュス ゴッ...ダンケ 
シェン」と笑顔で挨拶しました。
混んでいたので、挨拶は私だけだし、返事もありませんでした。

宮殿を出る時、あの無愛想な係員が私にドアを開けてくれました。
びっくりして咄嗟に「ダンケ シェン」と言うと「ビテ シェン」と
無愛想な笑顔で返ってきました。
彼は、他の人にはドアを開けていないようですから、2時間前の私の
「グリュス ゴッ」を覚えていたのかも知れません。

女房は「アンタが倒れそうな老人だから親切なのよ」と言います。
「悪態つくよりも、『グリュス ゴッ』と『ダンケ シェン』と挨拶
しなさいよ」と言いたいのを、今回は気持ちよく我慢できました。

□■□□□□
エピソード-2 ー紅茶専門店でー

ウィーンのシュテファン大聖堂を見学した後の休憩に、聖堂の背後に
ある「ハース&ハース」というテ・ハウス(喫茶店)に向かいました。
私はコーヒーの方が好みなんですが、紅茶好きの疲れた女房のために
(機嫌をとるために)寄ってみようと思ったのです。

画像
シュテファン大聖堂の
背側面(工事中)です.
観光馬車のターミナル
ですから、馬の臭いが
漂っていました.
画面の左下端の女性が
風の悪戯に会いました.

☆☆以下★★までは余談です。スルーされる方が良いかも知れません。

大聖堂の裏手に廻って、先を歩く女房と、建物を撮影する私との間に
少し距離ができ、そこを若い女性2人が歩く格好になりました。
私がフッと顔を上げた時、急に大聖堂から風が吹いてきて、2m先の
女性のスカートが捲り上がって、お尻が丸見えになりました。

パンツを履いていない、文字どおり丸見えの、見事なお尻でした。
いわゆるTバックなのかも知れません。

一瞬の出来事ですが、脳裏に静止画像のように焼きつきました。
暑さに疲れた私への神様の粋な計らいかも...と不謹慎なことを考えて
いると、「ハース&ハース」の玄関前で女房が睨んでいました。

紅茶をいただきながら、女房は「これ、Tea bagではないよね...」と
呟きました。
私は、先ほどの脳裏の画像を反芻して「Tバックでも素晴らしい」と
返事しました。

★★ 失礼しました。

☆☆本文の続きです。
画像画像
(左/註3) 「ハース&ハース」の紅茶専門店とカフェは離れています.
(右/註4) 緑に囲まれた気持ちの良いテラスでした.


「ハース&ハース」の庭のテラスで紅茶とケーキをいただいて、隣の
紅茶ショップに向かいました。
玄関前に来た時、急に店舗のドアが開いて、5,6人の中国人観光者が
大声で話しながら出てきたので、ぶつかりそうになりました。

店舗は、階段を少し降りた半地下のような、奥行きのある空間す。
多種多様の紅茶以外に、様々なお菓子も置いてあります。
これでは、女房の買い物に時間がかかるだろうと直感しました。

店舗に降りるや否や、女房はすぐに物色し始めました。
遅れていくと、店主らしき中年女性が険悪な表情で私を見ています。
ギョッとして、思わず「グリュス ゴッ」と言いました。

しかし女性は、何か呟いて険しい表情のままソッポを向きました。
女性店主は店員に目配せして、嬉々として物色する女房に張り付かせ
ました。
歓迎されていない険悪な空気が、肌身に刺さる思いでした。

画像
(註5) 冷たい視線がなければ、素敵な香りの漂う空間だと思います.


女房が、日本での買い物のように、挨拶なく入店して徘徊するのが、
気に障ったのでしょうか。
または、私が挨拶のタイミングを外したのが、歓迎されない原因なの
かもしれません。

または、私たちの直前にいた中国人グループが店内で無礼を働いて、
店主の女性の立腹と不機嫌を招いたのかもしれません。
西洋人にとって、日本人と中国人の区別は難しいですから、私たちを
中国人グループの仲間だと思い違いされたのかもしれないのです。

店主女性の不機嫌の原因はわかりませんが、ともあれ、空気にトゲが
あるので、女房を急かして少々の紅茶を購入して、外に出ました。

彼女の不機嫌は、「スワロフスキー(装飾店)」で買い物すると収まり
ました。
「スワロフスキー」では、日本語・韓国語・中国語が飛び交って混雑
していましたから、挨拶なしでも店員は上機嫌でした。

161129
□□□□□
下記の画像を加工しています.
(註1)「素粒子物理研究所にいる渡邊のブログ」
 http://naokiwatanabe.blogspot.jp/2015/10/20151025-vienna-on-october-25-2015.html
(註2)「saraiのブログ」
 http://sarai2551.blog.fc2.com/blog-entry-1213.html
(註3)「google/ストリートビュー」
(註4)「alamy」
 http://www.alamy.com/stock-photo/teehaus-haas-&-haas.html
(註5) 「4travel.jp」
 http://4travel.jp/overseas/area/europe/austria/wien/shopping/10409726/pict/#each_tab



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暮らし/雑草-12 放水路と道端の雑草除去

2016/11/20 13:52
変人の暮らしと、少々毒のある雑観です.
□□□□□
8月上旬は、市によって放水路の雑草の除去作業が行われます。
炎天下の蒸し暑い最中、下請けの作業員たちは黙々と草刈りします。

今年の放水路清掃でも、繁茂した草も、小さな花も、機械と人の手で
刈り取られ、道端には灰色の土がむき出しになりました。
私が毎朝楽しく見ていた、草花やフェンスの所々に咲いていた野生の
朝顔も、残らず取り去られて、緑のない殺風景な道端になりました。

そして例の「オレガ」氏が、「だいぶキレイになったけどね、もっと
徹底しなきゃな〜」と叫びながら、「オレガ」が僅かに残った雑草を
毟り始めました。
自分に無用な生物の、小さな命は抹殺すべきだと考えているのです。

グランドカバーの葉と土壌を固める根を失った土は、紫外線に晒され、
生命力を失ったように白くなりました。
土壌中の微生物の、他の生命を生かすエネルギーが死滅しそうです。

なぜ、土壌の生命力を抹殺して、自然環境の多様な生態系を壊そうと
するのか、私には理解できません。
しかし逆に彼らにしてみれば、雑草のない環境は美しく清潔であり、
雑草の徹底排除は正義ですから、私の方が異常に見えるようです。

地域には様々な異なる意見を持つ人がいて当然ですが、私が「土にも
雑草にも生命があるんだから、見苦しい所だけを整理すればいい」と
意見を言った途端に、陰湿な嫌がらせが増加し、それが地域の公認に
なりました。

画像以前、作業する彼らに
「暑いので無理しないで
いいですよ...誰も文句を
言いませんよ...」と声を
かけたことがあります.
「でも、仕事ですから...
チャンとやんないと」と
返事されました.

たしかに、一般的に雑草は嫌われています。
人の生活に無用であり障害である、というのが理由です。

「社会に無用だから抹殺すべき」という思考回路は、16年7月に発生
した「相模原障害者施設殺傷事件」の犯人と同じだと思います。

「生きている価値はないし、他人の迷惑な存在だから」という理由で
犯人は19人を殺害し26人に重軽傷を負わせました。
その犯人の冷酷な所業は、「道端の草花は、生きる価値はない」ので
「根こそぎ、根こそぎ〜」と掛け声して毟り取る行為と、基本は同じ
だと思うのです。

自分の好きなものだけを周りに置いて、気に入らないものを排除する
姿勢は、世間によくある「何々ハラスメント」にも似ています。
「オレガ」夫婦の私への低俗なイヤガラセにも似ています。

画像短い通り雨の時、黙して
作業していた彼らは「わ...
涼しい」と満面の笑顔を
作る、純な人たちです.
草たちには「懸命に生き
ようとしていたことは僕が
見ていたよ...また何処かで
生まれておいで」と心中で
声をかけました.

「雑草は低レベルの生物だから、人間と同列に考えるべきではない」
という旨の反論は、必ず大多数の方から蔑視的に湧き上がります。
しかし私は、どんな生物でも、生きていること自体が貴重な「存在」
だと思いますから、命に軽重の差はないと思っているのです。

人は他の生命を食して生かされています。
ですから食する時に、「いただきます」正確に言えば「あなたの命を
私の命にいただきます」と念じて、感謝しているのだと思います。
「美味しかった」という気持は、食を支度してくれた人と食した命に
対する感謝だと思うのです。

雑草の効用については、様々なサイトで丁寧に解説してあります。
ある程度の雑草を残すことは、実は人の生活に有益なのです。
ですから、雑草と大らかな気持ちで向き合って共存し、生えると困る
所や繁茂し過ぎた所だけを、適宜に管理すればよいと思います。

ただし、土壌微生物は紫外線により死滅するので、地表面を露出させ
ないように、草が少し残るようにして刈り取ればよいのです。
土には、乾燥しないためのグランドカバーが必要なのです。

画像画像
 草刈り終了直後に短い通り雨がありました. 天からの水を得た
 土壌が、草のグランドカバーを再生することを期待しています.


昭和天皇の侍従への苦言のように、「雑草は、人の勝手な都合で取り
去ってはいけない」と私も思います。
自然保護の観点からも、土を裸にしてはいけないと思います。

しかし、「オレガ」夫婦はもちろん、私の女房や近隣の住人たちは、
自分と異質な意見を聴くセンスは持っていませんから、雑草の小さな
命や土壌の「生き死に」を考えることはありません。
「あいつは意味不明な戯言を口走る...狂ってるよ」と噂するだけです。

いつか、地域環境を管理する市職員が、自然の生態系に配慮して水路
周辺を整備できるレベルに成熟されるだろうと期待しています。
そうなれば、道端の土を乾燥させ、身近な自然を壊したい人が、土と
緑の生きる道端景観を楽しむ者への嘲笑は少なくなると思います。
□□□□□
161120


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雑観/世相-10 飛行機のエチケット袋(吐袋)

2016/11/11 11:07
変人の暮らしと、少々毒のある雑観です.
□□□□□
飛行機に乗ると、座席前のポケットの中で、機内誌の陰にひっそりと
潜んでいる小さな袋があります。
いわゆる「エチケット袋」、あるいは「ゲロ袋」、「吐袋」です。
「Airsickness bag」「disposal bag」とも言われているようです。

内側を防水加工し、液体が漏れにくいように作ってあります。
表には様々なデザインがプリントしてあって、わりと洒落ています。

ですから、使用していなくても、気恥ずかしさに勝って、こっそりと
搭乗の記念に持ち帰る人も多いようです。
オランダには6千枚以上を集めた熱心なコレクターがいるそうです。

航空会社の「エチケット袋」は特注品であり、市販されていません。
ただし「ヤフオク」では、1枚10円から数百円で出品されています。

画像画像画像

(註1)「ヤフオク」出品の「エチケット袋」です.


「エチケット袋」を他人が使用していると想像すれば、いい気持ちは
しませんが、使わざるを得ない状況の当人にしてみれば、この小さな
袋は「天の助け」です。

機内で使用した場合は、CAに渡せば処理してくれます。
美人CAに渡すのが恥ずかしいのなら、機内のトイレに中身を流して、
袋をたたんで、これをトイレに置いてある予備の袋に入れ、ごみ箱に
捨てます。

私はそうした「吐袋」として使ったことはありませんが、目立たなく
ても、緊急時に頼りになる、有り難い航空グッズだと思っています。

画像画像画像

(註1)「ヤフオク」出品の「エチケット袋」です.


実は、私は「エチケット袋」を持ち帰るタイプです。
趣味ではなくて、旅行先のホテルで使うのです。

ホテルの部屋で、ワインのツマミの屑、果物の皮、濡れたティッシュ
など、水気のあるゴミを「エチケット袋」に入れ、備え付けのゴミ箱
に捨てます。

ゴミ箱に直接入れるよりも、汚れが少なくなるので、室内清掃の人の
負担が軽くなるだろうと思うからです。
酔ってグラスや皿を割った時も、破片を集めておくのに便利です。

画像画像

(左) 持ち帰ったオーストリア航空の「エチケット袋」です.
 「吐袋」には機能しないし、デザインもイマイチです.
(右/註2)1988年にネットに掲載された、オーストリア航空の
 「エチケット袋」は「吐袋」として使用できます.


「エチケット袋」は、1949年に、アメリカの航空会社が用いたのが
最初だと言われています。
以来、多くのエアラインが、様々にデザインした袋を用意して、汚物
処理を美的に装い、自社アピールにも利用してきました。

最近は、コストダウンのため、プリントのない簡素な袋にする傾向に
あるそうです。
機体の大型化、航空技術の進化のため、酔う人が少なくなったので、
「吐袋」よりも「ゴミ袋」として使う機会が多くなったからです。

「吐袋にもデザイン」は「粋」だと思っていましたから、「ゴミ袋」
だからデザインしないという傾向は、少々寂しい気がします。
食事以外は退屈ですから、乗客は「ゴミ袋」もしっかり観察します。
コストダウンは大変でしょうけど、「粋」なところを見せて就航して
欲しいとも思います。

161111
□□□□□
(註1)「ヤフオク」の画像を加工しています.
 http://auctions.search.yahoo.co.jp/search?p=エチケット袋&auccat=0&ei=UTF-8&xargs=7&b=1
(註2)「MUUSEO」の画像を加工しています.
 https://muuseo.com/machida.shinobu/rooms/5



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暮らし/健康-09 少し大きな歯ブラシ

2016/10/30 10:47
変人の暮らしと、少々毒のある雑観です.
□□□□□
私の歯は差し歯だらけで、一部分は歯槽のう漏です。
朝晩きちんと歯磨きしているのですが、そうなってしまいました。

歯科医から勧められて、普通の歯ブラシで歯磨きするほかに、刷毛が
直径4ミリのワンタフトブラシと歯間ブラシも常用しています。

画像


いつも使っていると
癖になります.

以前、オーストリア航空を利用した時、機内で渡されたアメニティの
中には歯ブラシも大小2本が入っていました。
植毛部分の長さは、大きい方が28ミリ、小さい方は9ミリです。

自宅で使っている歯ブラシの植毛長さは18ミリですから、「28ミリ
歯ブラシ」は、口の中に入れると、かなり大きく感じます。
機内の洗面室で使用した時は、タワシを含んだような気分になって、
一人可笑しくなり、フッと笑って咽せてしまいました。

使用後は廃棄するつもりでしたが、その感触が気持ちよくて、ホテル
でも使い、そのまま自宅に持ち帰ることにしました。
そして、「28ミリ歯ブラシ」は、刷毛の先端が開いたら蒸気を当てて
少し回復させ、3カ月間使いました。

画像


植毛長さが1cm大きいと
感触が全く違います.

歯ブラシの適当な大きさは、様々なサイトで解説されています。
私が以前に使っていた「18ミリ歯ブラシ」は、植毛長さがほぼ親指の
幅ですから、「適当な大きさ」です。

対して、オーストリア航空の「28ミリ歯ブラシ」は、歯科医の勧める
大きさよりも1cm大きいです。
不適当な大きさの歯ブラシを使えば、磨き残しができて、口腔ケアに
良くないのだそうです。
しかし、それでも「28ミリ歯ブラシ」は、感触が良いのです。

通常、歯垢を掻き取るために、歯ブラシは小刻みに動かすものです。
しかし「28ミリ歯ブラシ」は、それとは逆行して、口内にスッポリと
含んで、ユッタリ動かします。
不十分な歯磨きですが、それは、一日の始まりと終わりの行事を気分
よくしてくれました。

現在は「適度な大きさの18ミリ歯ブラシ」を使用していますが、あの
大きな「28ミリ歯ブラシ」の感触を、いつも懐かしく思い出します。

161030
□□□□□


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ルーヴル美術館の「ニケ」

2016/10/20 09:50
変人の暮らしと、少々毒のある雑観です.
□□□□□
ルーヴル美術館といえば、「モナ・リザ」と「ミロのヴィーナス」が
有名です。
2016年8月に訪れた時も、気温37℃の異常な暑さにもかかわらず、
その二つの作品の周りは、大勢の人で賑わっていました。

画像
画像
(上) モナ・リザ(レオナルド・ダ・ヴィンチ/1503-19年頃)の人集り.
(下) ミロのビーナス(BC.130年頃) 人の波が途切れません.


しかし私は、以前から「サモトラケのニケ」の方が印象的でした。
あの二作品の人だかりにウンザリしたから、だけではありません。
自分にも翼があれば...と、大空を舞う願望を持っていたからです。

「ニケ」ファンも非常に多くて、彫像の下はいつも混雑しています。
人だかりの理由は、階段の踊場の、動線の途中にあるから、だけでは
ないと思います。
風を感じる動的な印象が、多くの人を惹きつけているようです。

画像
画像
 サモトラケのニケ(Victoire de Samothrace)/BC.190年頃
 ドゥノン棟とシュリー棟の接合点にあるダリュの階段にあります.


階段下から見上げるヴィスタの焦点にあるので、出会いが劇的です。
そして、近づくにつれて、風に向かって大きく翼を上げた女神の姿が
次第にはっきり見えてきます。
高さ3.3m、台座を含む全体高さは5.6mですから、迫力があります。

近くにいた日本人の若い男女の、やや興奮気味の声が聞こえました。
「エーゲ海の風を受け、翼を広げて、飛び立とうとしているんだね」

たしかに、女神が飛び立つ瞬間のように見えます。
そう思っている人は多いと思います。
私も以前は、彼らと同じように、「ニケ」が希望の大空に舞い上がる
瞬間の彫像だと思っていました。

画像
 勝利を伝えるため、強い海風を操りながら、天空から船のヘサキに
 降り、ソッと右足を床に触れた瞬間です.


しかし「ニケ」は、鳥ではなくて、女神ですから、閉じかけた両翼を
勢いよく振り下ろす必要はなく、象徴的に構えればいいと思います。
つまり、もっと翼を広げて風を受ける姿にすれば、舞い上がる動作を
表現できると思うのです。

しかし、「ニケ」は翼をたたみかけようとしています。
正面から受ける海風を微妙にコントロールしながら翼を閉じていき、
天空から降りてきているように見えるのです。
つまり、これから舞い上がるのではなく、逆に、天空から舞い降りて
着地する瞬間であるのです。

実際、「ニケ」は、上空から船の先端に降り立ち、右手を高く揚げて
勝利を伝えに来た女神、として製作される彫像なのです。
風を操りながら舞い降り、ソッと右足を床に着けた瞬間の姿です。

画像
 両手と両足の格好が違うので、両翼の形も違う方が、走っている船の
 ヘサキに降り立つ様子が、より動的に表現できるような気がします.


「勝利を伝えに来た」女神ですから、飛び立つ動作よりも、着地した
瞬間を表現する方が当然です。
その当たり前のことに気が付いたのは、帰りの飛行機の中で絵葉書の
ニケを眺めていた時で、いま思い出しても赤面します。
後日、文献で調べて「舞い降りた瞬間」であることを確認しました。

そして今回「サモトラケのニケ」を再訪して、「舞い降りた瞬間」の
美しい緊張感に、あらためて感動しました。
一瞬、騒めきが止んで静寂になり、そこにエーゲ海の風が吹いてきた
ような錯覚を楽しみました。

「翼を広げて飛び立とうとしている」と言ったあの若いカップルは、
「それは逆だよ」と訂正するのがかえって悪いような気がするほど、
感動していました。
「ニケ」の右足が床に触れた瞬間であることを知った時、あの二人は
もっと深い感動を分かち合うだろうと思っています。

画像
画像
 1950年に発見された右手は、大きく広げられているそうです.


ルーヴルの「ニケ」像の右翼は、左翼を反転して復元されています。
ですから、正面から見ると、両翼は左右対称に付いています。
もし、左右の翼の形が少し違っていれば、斜め横からの海風を受けて
いる表現になり、衣の動きがより動的に感じられるかも知れません。

とはいえ、この彫像の作者だけでなく、100個以上の破片を統合して
復元した研究スタッフの、高度な美的センスに圧倒されます。
頭部や腕や足首などの未発見部分を、想像して補う必要はないように
思います。
不完全であっても、感動の質は、完全な姿に劣らないと思います。

161020
□□□□□


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暮らし/日常-25 朝顔の葉にいたイモムシ

2016/10/10 14:47
変人の暮らしと、少々毒のある雑観です.
□□□□□
9月の中旬になると、拙宅の庭の朝顔がかなり疲れてきました。
この夏も、読書やパソコンに疲れた時、陰湿な嫌ガラセを受けた時、
この色とりどりの花と豊かな緑の葉に、随分と癒されました。

花が少なくなった頃、小学一年の孫娘が拙宅に遊びに来ました。
その孫娘が、花と葉の少なくなった朝顔を眺めながら、なんと「あ〜
秋だねぇ」とため息混じりに呟きました。

画像画像
(左)夏の朝顔です. (右)孫娘です.


「おませだねぇ」と笑った時、孫娘は「あーっ、イモムシが葉っぱを
食べているよっ」と素っ頓狂な声で指をさしました。
指の2m先を見ると、褐色のイモムシが朝顔の葉の裏に逆さにへばり
付いて、葉を食べていました。
去年もいた、エビガラスズメの幼虫です。

画像

朝顔の葉を食べている
エビガラスズメの幼虫
です.

私は虫が大嫌いで、見ると背筋がゾゾーッとします。
普通のお宅では、例えばゴキブリを見たら奥様がキャーッと叫び声を
上げますが、拙宅では私が叫びます。
男のくせに...と謗られますが、触りたくないので構いません。

孫娘が指差したイモムシを見てワーッと叫びそうになった時、彼女は
「もうすぐ綺麗な蝶々になるんだね...楽しみだね」と言います。
「蝶々になったら見にくるから、ジイちゃん教えてね」とまで言われ
たら、駆除できなくなりました。

画像

すぐ側に人がいるのに
気がつかないのか、
一心不乱に食べていて
います.

女房が見つけた場合は、袋に入れて「燃えるゴミ」として扱います。
私の場合は、長い棒の端に乗せて道端の草むらに移します。
見たくないのを見るわけですから、手が震え、時間がかかります。

女房は「あれは汚い蛾になるんだよ、綺麗な蝶にはならないんだ」と
言ってイモムシを捕獲しようとすると、孫娘は「蝶になるんだよ」と
半ベソ状態になりました。

私が「そうね、綺麗な蝶になるよね」と言うと、二対一です、女房は
私を睨みながらプイと横を向き、その場は治まりました。
イモムシは生き延びたし、私も触らずに済んだし、ホッとしました。

画像

(註) 害虫ですが、
栄養価が高いので、
未来の食料として
研究されています.
実際、家畜の飼料
であるそうです.

エビガラスズメは害虫だそうです。
しかし、ムシたちは正当な理由があって、そこに生きているのです。
人間の都合で害虫と益虫を区別するのは、自然界に対して傲慢である
ような気がします。

いわゆる害虫がいなければ、害虫を捕食する益虫も生きられません。
益虫がいないと、そこに新たに害虫が増えてきます。
その害虫を捕食する益虫が増えるには時間がかかりますから、結局は
人間にも自然にも有害な農薬を撒いて駆除することになります。
つまり、害虫がいないということは、人に有害な事態を招くのです。

道端でも農地でも、雑草の多い所には、害虫と益虫の区別なく様々な
ムシが生息していて、「食べる食べられるという共存関係」によって
生態系がバランスしているのです。
バランスが崩れたムシのいない農薬漬けの農地から産出される作物は、
長い間には、人間の地球での存在を脅かすことになる、と思います。

画像

種を作るだけになった
朝顔のプランターです.
イモムシが土の中に
潜り込んでいなければ
いいのですが...

エビガラスズメの幼虫の天敵は、アリなんだそうです。
庭にアリが住めば、イモムシは朝顔の葉を食べたいだけ食べた後で、
新たな場を求めて移動していくかもしれません。
冷や汗かいてイモムシを駆除する必要はないと思うのです。

画像

翌日に咲いた花です.
最後の花かも...
すく下に、イモムシが
食べ残した、葉の茎が
あります.

夕方、雨戸を閉める際、簾の高所にいるイモムシに気付かず、間近で
目撃した時は、息ができなくなって卒倒しそうになりました。
でも翌日は、数匹いたイモムシは、何故かいなくなりました。

引越ししたのか、あるいは、プランターの土の中に潜入したのか...。
チューリップの球根を植え込む予定があるので、プランターの中には
いないで欲しいのですが...。

161010
□□□□□
(註)「エビガラスズメ」の画像を加工しています.
 http://www.page.sannet.ne.jp/mahekawa/ebigarasuzume.htm



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雑観/世相-09 海外旅行での気の緩み

2016/09/30 09:55
変人の暮らしと、少々毒のある雑観です.
□□□□□
今年(16年)、秋に予定していたウィーン・パリ旅行を、急遽変更して
8月下旬に実行しました。
女房との同行も予定外でした。

ホテルは、奮発して、街の中心部にある4星クラスを予約しました。
ウィーンのホテルも、「ケルントナー通り」の繁華街から少し脇道に
入った、街歩きに便利な位置にあります。

4星ホテルと言っても、安価な方ですから、高級感はありません。
1912年開業の古いヨーロピアン・タイプですから、冷房設備はなく、
床に送風機が一台置いてありました。
エレベーターも、昔の映画で見たような、二重扉の古風な設備です。

しかし部屋は、そしてホテルのロビーも廊下も、広くて天井が高く、
全体が質素な雰囲気ですが、落ち着ける空間でした。
フロント・デスクも好印象だし、廊下ですれ違う清掃の女性も快活に
挨拶してくれました。

清掃の女性たちは、移民のような顔立ちで、ドイツ語も英語も、私と
同様に、上手くは話せないようでした。

画像
 早朝のウィーン市内の
 ケルントナー通りです.
 まだ人は疎らです.
 カフェのテラスも閉じて
 います.
 ホテルはこの近くです.


数日気持ちよく過ごして、滞在最終日の朝、朝食に向かう時、女房は
少し寝坊して慌てたのか、財布とパスポートを入れたバックを持たず
に部屋を出ようとしました。

バックを置いたベッドサイドのデスクまで少しの距離なので、取りに
戻るように促しましたが、女房は「大丈夫だよ、大丈夫...」と言い、
私たちはそのまま部屋を出ました。

女房は、温厚な印象のホテルに、すっかり気を許していたのです。
私も、4星ランクと伝統的な雰囲気に、本来は関係ないことですが、
何故か信頼を寄せていて、バックへ置きっ放しにしても安全だろうと
思い込んでいました。

画像
 ウィーンのホテルです.
 女房はウィーンの街を
 好きになったためか、
 油断して、この部屋に
 バッグを置いたまま、
 食堂に行きました.


次の滞在都市のパリで、ホテルの部屋で一息ついた時、女房が怪訝な
声で「アレー?」と言いながら、バックと財布、スーツケースの中を
探し出しました。
財布の、日本円の1万円札の10枚のうち、3枚がないというのです。

ウィーンのホテルを出立する時は、空港で買い物するために、財布の
中を何度も見ていたのですが、日本札は在ることだけを見て、枚数は
確認していなかったのです。

ついに、1万円札の3枚は見つかりませんでした。
バックを部屋に置いたまま朝食に行った時に無くなったようで、それ
しか思い当たることがないと言っていました。

移民系の清掃の女性を疑うのは悲しいことですが、すぐに気づかれな
いように3枚だけを抜き取ったのかもしれません。

画像 パリのホテルです.
 ここで所持金の一部が
 ないことに気づきました.
 油断したことを後悔し、
 気を引き締めなおして、
 プランタン・デパートに
 ダッシュしました.


「自分の持ち物は、手を離した瞬間に、所有権を放棄したことと同じ
状態になる」という海外旅行時の基本原則を失念していたのです。
もう後の祭りですから、以後は、自己管理は当たり前だという意識を
持って行動するしかありません。

西欧の文化には「貧しき者は富める者から施しを受ける権利がある」
という意識が伏流していると思います。
ですから、「信頼」と「気の緩み」を混同すると、気づかないうちに
自分が「施しする富める者」として認識されるのだと自戒しました。
そうして女房は、さらに強くなったような気がします。

160930
□□□□□
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暮らし/日常-24 誕生日は夫婦の食事会

2016/09/20 09:49
変人の暮らしと、少々毒のある雑観です.
□□□□□
五月下旬は、私の誕生日です。
その日の夕食は、レストランで頂くのが、私ども夫婦の恒例です。
私は食に不案内ですので、いつも女房がセットしてくれます。

今年は、高層ホテルの中の和風レストランを予約してくれました。
しかし、例年と違って、今回は昼食でした。
女房は、そのランチメニューにこだわりたかったのだそうです。

画像

(註1)
高層ホテルの2階の
和風レストランにて
二人の食事会です.

ネットで食事処を探すうちに、あるメニューが目に止まって、「私が
食するのはこれだ」と固く決心したようなのです。

似たような料理は他にもあると思うのですが、「食べるのはこれだ」
と決めたら、そのメニューを一途に思い詰める...それは、やや太めの
体型の女性によくある性質である、ような気がします。

私は、お酒をいただければ、どんな料理にも不満はありません。
「料理は、お酒を美味しく戴くために在る」と思っている人種です。
量はホドホドでよく、酒種は美味しければ何でもいいのです。

画像
(註2)
カジュアルな
雰囲気ですが、
窮屈な印象は
ありません.

酒も料理も美味しかったです。
和服の女性が食事を運ぶたびに、女房は写真を撮っていました。

私は料理の写真には興味はありませんから、撮影を横目で見ながら、
ただ真昼の美酒を楽しんでいました。
年に一回は、この程度の贅沢は欲しいと思いました。

しかし次第に、女房の顔に険しさが垣間見られるようになりました。
恐る恐る体調が悪いのかと訊くと、和服の女性が私どもの食事の進み
具合を見計らいに来るのが気になるのだそうです。

コース料理ですから、良いタイミングで次の食事を出すには、食事の
状態の確認は必要でしょう。
明らさまに観察されると気になりますが、品の高いレストランでは、
客への配慮が行き届いているので、気になる視線はないものです。

画像
(註2)
「新緑」というメニュー
です.
「1日限定20食」の
文言に惹かれるよう
です、特に女性は.

私は、街の景色と美酒を楽しんでいましたから、和服の女性の視線は
気が付きませんでした。
しかし、その時の女房は、和服女性の仕草がやや粗雑に感じたのかも
しれません。

和服女性は、ディナーの準備のために、早めにランチ・タイムを切り
上げたいと、焦っていたのかもしれません。
大勢の来客をもてなしたい気持ちが、女房には食事を急かせるような
素振りに感じられたのかもしれません。

しかし、ランチコースとはいえ私達も客ですから、急ぎたい気持ちを
抑えて、優雅な振りして対処していただくと良かったと思います。
忙しくなりそうな時ほど、「お茶いかがですか?」など言って接近し、
さり気なくタイミングを見計らう、プロ意識が欲しいと思いました。

画像

(註3)
和服姿のウェイトレスは
親切でよく動いています.

女房が気分を害したのなら、ここを早く切り上げようと提案したら、
「いや...どっしり腰を据えて、最後のお茶一杯まで楽しむのだ」と...
予想外の返事が返ってきました。

私が落ち着かなくなったのに対し、逆に、彼女は構え直して、食事を
優雅に味わっていました。
やはり、ふくよかな体型の女性は度胸があるのかも知れません。

160920
□□□□□
以下の画像を加工しています.
(註1)「Google ストリートビュー」
(註2)「パレスホテル大宮」
 http://www.palace-omiya.co.jp/fair_cat/fair04/
(註3)「食べログ」
 http://tabelog.com/saitama/A1101/A110101/11000722/




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雑観/スポーツ-06 頭を撫でて讃えるサッカー

2016/08/11 10:52
変人の暮らしと、少々毒のある雑観です.
□□□□□
スポーツ番組では、サッカーの試合状況も頻繁に報道されます。
上手い連携プレイに続くゴールは、観ていて気持ちがいいものです。

しかし、ゴールを決めた選手が、喜び合おうとする仲間を振り払い、
血相変えて走り廻って、奇妙なダンスを披露するパフォーマンスは、
私は好きになれません。
そうした場面になりそうな時は、すぐに画面から目を逸らします。

画像
(註1)
窮屈な姿勢になってでも
頭を手で撫でようとする
行為には、美技を讃える
以外に、組織の中の位置
関係を表現する気持ちが
僅かながら含まれている
ように感じられます.

選手が他の選手の頭を撫でる行為は、もっと好きになれません。
目を逸らす間がなくて見てしまうと、後味の悪い印象が残ります。

平等であるべきチームメイトを格下に処遇しているように見え、また
それを周囲に見せているように感じられて、好きになれないのです。
そうしたパフォーマンスには、どうしても違和感がもたれるのです。

しかし、その行為は、親愛や賞賛を表す選手間のスキンシップだから
歓迎すべきだという人も結構います。
単に頭を撫でているだけだから、ヒステリックにならなくてもよい、
と揶揄する人もいます。

画像
(註2)
頭部ではなく、肩に手を
置いても、祝福や愛情の
表現には十分なりうると
思います.

頭に触れて賞賛する仕草は、西欧の選手に多いように思います。
それはローマ法王の祝福の行為に似ていて、それが意識中に潜在して
いるからなのかも知れません。

あるいは、大人が幼児の頭を撫でているようで、微笑ましく見えると
理解されているのかも知れません。
しかし、それは、大人同士だと滑稽に見えます。
エスカレートして頭を叩いたり振り回せば、暴行になります。

国によっては、頭部を触られると侮蔑されたと認識されたり、頭部に
手を置かれると嫌悪感を持たれる場合もあります。
それは、頭部を神聖視する伝統的な気質があるからであり、あるいは
髪を平気で触らせるのは売春婦だという歴史的背景もあるようです。

画像
(註3)
美技を賞賛しながらも、
上下の関係を見せつける
意識が見え隠れしている
ような気がします.

日本の伝統的なスポーツでも、相手の頭に手を置いて賞賛する行為は、
過去にはなかったと思います。
たとえば相撲で、土俵上で相手力士の頭部を触ると無礼になります。
柔道や剣道の試合の場でも、祝福するために勝者の頭を撫でることは
大変な失礼になると思います。

サッカーはイギリスに発祥したスポーツですから、西欧の選手たちの
仕草を真似ることは、自然な行為なのかも知れません。
国際的なルールとマナーは遵守すべきですが、しかしゴールした後の
行為は、普通に「日本人の国際人」らしくあって欲しいと思います。

個人的な願望ですが、頭を撫でる行為は、品位が低く見られる場合も
ある、ということをスポーツ選手には知って欲しいと思います。

どうしても頭を撫でたい相手がいるのであれば、変な言い方ですが、
観客やカメラから見えない場所で、お互いに頭部を撫で合っていれば
よいと思います。
しかし滑稽ですから、やはり、止めた方がいいかも知れません。

160811
□□□□□
以下のサイトの画像を加工しています.
(註1)「ガンバ好きなおっさんのgdgd日記」
 http://blog.goo.ne.jp/may200805/c/27fe9ee605b475fe2460b1cc450df38d/12
(註2)「産経ニュース」
 http://www.sankei.com/world/photos/140815/wor1408150022-p1.html
(註3)「毎日新聞」
 http://mainichi.jp/graph/2012/05/24/20120524org00m050012000c/010.html



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暮らし/日常-23 徒然なるジョーク -3 思い違い系

2016/08/01 12:57
時々思い出して、独り密かに薄笑いする「思い違い」です。
オリジナルのつもりですが、既出でしたらご容赦くだい。
■■■■■■■
「グルメ」と「久留米」
画像
(註1)
婆「昔の彼氏...グルメだったのよ」
爺「あー、久留米なら絣(かすり)が有名だね。福岡県だよね。」
婆「え...? 'カスリ'じゃなくて'カスレ'って言うのよ。 フランスよ」
 (カスレはインゲン豆と豚肉のフランス料理です)
 (歳とると、違うことを言い合っても、会話は成り立ちます)

■■■■■■■
「わんこそば」と「ワンコそば」
画像
(註2)
岩手の友人「わんこそばサ...食ってメロ。うめーぞ」
福岡の友人「バカにすんな。オラー、犬じゃなかド」

■■■■■■■
「ねぶた祭り」と「寝ブタ祭り」
画像
(註3)
青森の友人「ねぶた祭り...一度、見に来ねーか」
福岡の友人「寝てるブタなら、どこにもおるよ。
      それが何で..."お祭り"になるんかね〜」

■■■■■■■
「こぶ取り爺さん」と「小太り爺さん」
画像
(註4)
爺「正直者のこぶ取り爺さんは、ホッペがすっきりしたんだって...」
孫「小太りだったんだね...正直者はダイエットできるんだ...。
  意地悪だったら、大太りになるのかな...?」
爺「たしかに...意地悪な爺さんは、ホッペが二つ瘤になったな...」

160801
□□□□□
以下の画像を加工しています.
(註1)「google map」
 https://www.google.co.jp/maps/@33.1529385,130.9083791,253645m/data=!3m1!1e3
(註2)「naverまとめ」
 http://matome.naver.jp/odai/2139729840019022101
(註3)「世界中を旅するぞ」
 http://tabisukisuki.seesaa.net/article/371089032.html?seesaa_related=category
(註4)「EhonVavi」
 http://www.ehonnavi.net/ehon/81458/(デジタル)こぶとりじいさん/



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雑観/世相-08 ヒョットコ顔で食べる

2016/07/20 08:47
変人の暮らしと、少々毒のある雑観です.
□□□□□
自然な動きで気負いもなく、ナイフとフォークを使いこなして食して
いる様子は、老若男女を問わず、見ていて気持ちのいいものです。
マナーの云々に関係なく、動作が堂々として美しいと思います。

しかし、多くの若い女性は、フォークを口に運ぶ時、少し顔を左側に
向ける傾向があると思います。
左手の動きを少なくして、食事をエレガントに見せるための仕草なの
かも知れません。

画像画像
(左/註1)無理に優雅に見せようとすると、逆効果だと思います.
(右/註2)口を左に曲げて食べる様子は、一瞬、こんな顔に見えます.


その時、視線は前方に向けていますから、口を左に曲げてフォークを
迎えにいく恰好になります。
大変に失礼な想像ですが、私にはその顔が「ひょっとこ」面のように
見えることがあります。

ほんの一瞬ですが、見てはいけないのに見てしまった後悔と、少しの
幻滅が、サーッと眼前を通り過ぎます。
美しい食事風景を見ていたのに、少々興醒めしてしまうのです。

画像

(註3)
正面にフォークを運んで
食する姿は、堂々として
いて、奇麗に見えます.


フレンチ・テーブルでの眉目秀麗なる女性の仕草は、料理やワインを
美味しく見せるものです。
ですから、しっかり正面を向き、「ひょっとこ」面のように口を横に
曲げず、真っ直ぐ向いて品よく召し上がっていただきたいのです。

口を横に曲げて食べる仕草は、テーブル・マナーにそぐわない訳では
ありません。
しかし、そのエレガントな「ひょっとこ」顔は、密かに好意を寄せる
男性を、少々落胆させるかも知れないのです。

160720
□□□□□
(註1)様々な画像を集めて加工しています.
(註2)「祭の壱龍」の画像を加工しています.
 http://1doragon.shop-pro.jp/?pid=60250913
(註3)「ふたご日記」の画像を加工しています.
 http://yukoneji.exblog.jp/16600785/



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暮らし/日常-22 絶叫の体育祭

2016/07/10 17:47
*****
変人の暮らしと、少々毒のある雑観です.
□□□□□
五月下旬の土曜日は、拙宅前の中学校の体育祭が開催されます。
今年も数週間前から、体育の授業で練習が繰り返されます。
縄跳びやリレーの歓声と教師の罵声が、閑静な住宅地に響きます。

「春過ぎて 夏来にけらし 縄跳びと リレーの歓声 体育祭」

毎年、中学校は教師の一部と生徒が入れ替わり、体育祭の内容も少々
変更されているようです。
しかし、体育祭の歓声と女生徒のアナウンス、校長や来賓の挨拶は、
毎年、変わりがないように聞こえます。

画像

大音量の体育祭は、応援
したい気持ちと、憂鬱な
気分が混在します.

体育祭がマンネリ化しているというのではありません。
音源から80mほど離れた室内に届いてくるスピーカーの音が、異常な
ほど大音量ですから、例年と同じ内容に聞こえるのです。

頭が痛くなるほどの大音量の、おなじみの行進曲、大歓声、絶叫する
スピーカーは、みんな同じに聞こえるのです。
特に、徒競走やレーを実況中継する女生徒の絶叫アナウンスは、早口
ですから、何を言っているのか、ほとんど聞き取れません。

パソコンに向かって考え事している時に「今、紅組がトップです」と
叫ばれると、「見りゃぁ分かるだろっ」とシラけてしまいます。

校長の締めの挨拶は、決まって少々涙声の「感動しました!」です。
そんな時、女房から仕事は順調かと訊かれると、「混乱しました!」と
私も涙声になりそうです。
仕事はできていなくても、祭が終わるとドーッと疲れが出てきます。

画像
ヒステリックな
絶叫は、薄弱な
集中力をサッと
吹っ飛ばします.

しかし、生徒の家族にとっては、自分の子供が仲間集団に溶け込み、
懸命に走る姿は、嬉しく頼もしく見えると思います。

生徒たちの体育祭の歓声は、アイドルやゲームに熱中する時の声とは
違って、より純真な中学生らしく聞こえます。
興奮の冷めない様子で後片付けをする彼らの笑い声を聞くと、自分の
中学生時代を思い出したりもします。

体育祭の日は「どこかに避難すればいいのに...」と女房は言います。
その通りなんですが、もともと私は気分転換が下手で諦めが悪いです
から、遅れを取り戻そうとして、シャカリキになってしまいます。
しかし結局は、何もまとまらないのです。

女房の言うように、毎年のことですから、状況を学習して、対策を講じ、
同じ悪循環を繰り返さなければいいのです。
その日も、私の精神が柔軟性を失っていることに、気がつきます。

□□□□□
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雑観/TV番組-07 助詞の「〜を」の発音は「wO」?

2016/06/30 11:45
変人の暮らしと、少々毒のある雑観です.
□□□□□
TVのCMを何気なく観ていたら、ある引越会社のCMソングが流れ、
「〜エガヲ お〜♪」(〜Egawo O〜)と歌声が聞こえてきました。
「エガヲ」とは何なのか、一瞬、意味を理解できず戸惑いましたが、
すぐに歌詞の内容から「〜笑顔 を〜♪」だと分かりました。

そして、標準語で歌うのならば「〜Egao Wo〜♪」と発声すべきでは
ないだろうかと、疑念を持ちました。

昨今も人気の「アーカーベー6×8」も、全員が同じ振りでアヒル声を
鼻声にして「笑顔」を「エガヲ」と発音して斉唱しています。
大変な人気グループですから特に若い人たちが強く影響され、単語の
「□を」を「□wO」と言い、助詞の「〜を」を「〜O」と言うのが、
社会的に一般化したのかと思ったのです。

画像
(註1)
「〜Egawo/O〜♪」と
聞こえるCMソングの
イメージです.
「えがを」とは何なのか
一瞬戸惑いました.


そこで、「〜を」の発音について確認しておこうと思い、ネット検索
すると、多くの方がこの件に関心を持っていることを知りました。
驚くことに、「ウィキペデイア」にも「を」のページがありました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

その解説によると、奈良時代は「お」は「o」と、「を」は「wO」と
発音し区別されていましたが、平安時代以降は混用され、江戸時代に
なると「お」も「を」も共に「o」と発音されていたようです。

そして、1946年(昭和21)と1986年(昭和61)に公布された「現代仮名
遣い」では、助詞の「を」を表記の都合上残して、「お」と「を」は
「お」に統合することになったのだそうです。

たとえば、青(あを)、鰹(かつを)、栞(しをり)などの「を」は「お」に
書き換えることになったのです。
そして標準語では、「お」も「を」も「o」と発音するのです。
しかし方言では、助詞の「〜を」を、今だに「wO」と発音している
こともあるのだそうです。

画像(註2)
同じ振り、同質の声で
「〜Egawo/O〜♪」と
繰り返されていると、
次第に「お」は「wo」、
「を」は「o」というのが
正統だと思えてきます.


つまり、「笑顔を」は「Egao O」と発音するのが標準なのであって、
「Egao Wo」の発音は「現代仮名遣い」上では正しくないのです。
私はそれを、恥ずかしながら、生まれて初めて知ったのです。
「Egao O」を笑えば、逆に私が笑い者になるところでした。

しかし「〜笑顔を〜♪」を「〜Egao O〜♪」と歌うと、「笑顔を〜」
なのか「笑顔〜」なのか、歌詞が不明瞭に聞こえそうです。

そこで、「〜Egawo O〜♪」または「〜Egao Wo〜♪」発音すれば
「…o 」と「O」が区別でき、意味が伝わりやすくなると思います。
この場合は、「笑顔」は「Egawo」ではなくて「Egao」ですから、
方言の助詞を発音して「〜Egao Wo〜♪」と歌う方が、より適切で
あるような気がします。

廻り巡って、結局は「〜笑顔 を〜♪」は「〜Egao Wo〜♪」と歌う
方が違和感が少ない、ような結論に落ち着きましたが、まだ何となく
シックリこないのです。
還暦を数年も過ぎるまで、言い慣れてきましたから、まだ「〜を」は
「wO」と発音しそうです。

160630
□□□□□
(註1)「引越しの荷物の整理」の画像を加工しています.
 http://www.ecospot.jp/archives/6
(註2)「JINの芸能シンプル御殿」の画像を加工しています.
 http://n-jinny.com/3845.html



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暮らし/雑草-11-2 道端清掃2-ミセシメの花

2016/06/21 08:55
変人の暮らしと、少々毒のある雑観です.
□□□□□
拙宅前の雑草の「タチアオイ」がピンクの花を咲かせていました。
それが強風で倒れそうになると、紐でフェンスに柔らかく止めます。
そして「今年こそ最後まで咲くことができるように」と祈ります。

画像画像

 「タチアオイ」は、道端にあるので、この地域では雑草扱いとなり
 ますが、毎年、綺麗な花を咲かせ、道行く人を和ませています.
画像

強風で倒れそうになった
ので、麻紐を緩く巻いて
フェンスに止めました.

道端清掃の際、その「タチアオイ」の半分が切り取られました。
止めていた紐が、ダランと残されていました。
「タチアオイ」の花を愛でる私へのイヤガラセの一環です。

翌日、拙宅の傍で、「オレガ」婦が「アイツに文句言われるかも...」
「オレガ」夫(註)は「みんながヤッタと言えば大丈夫さ」と、何故か
大きな声で打ち合わせしていました。

やはり、例年通り、「オレガ」夫婦が切り取ったようです。
それを清掃参加者全員で切り取ったことにして、個人性を薄めようと
するのも例年通りです。
相変わらずセコい行為ですが、この近隣の住民気質を表しています。

画像

タチアオイの半分を
切り取った後の紐が
「ミセシメ」の如く
残されていました.

残された紐は、「オレガ」が捨て忘れたのか、あるいは「使ったのは
お前だから、紐はお前が捨てろ」という意味なのかも知れません。

あるいは、「お前の花は切り捨てた...ザマミロ」と、「みせしめ」に
残しているのかも知れません。
これまでの「オレガ」夫婦の陰湿なイヤガラセを考えると、この方が
妥当なところです。

画像

清掃の翌々日の、元気の
ないタチアオイです.
これから、徐々に弱って
いくと思います.

残った「タチアオイ」は、翌々日から次第に枯れていきました。
茎のどこかが、傷つけられているのでしょう。
徐々に枯れていくのを私に見せるためで、これも昨年と同様です。

自治会の活動を利用した、こうした「オレガ」夫婦の一連の所作には
陰湿や執念、狂気や戦慄を覚えることもあります。

「オレガ」夫婦も、私とは反対の論理で、自分たちが正当だと思って
いることでしょう。
「アイツ...雑草みたいな汚い物を好きとはな、狂ってやがるよ」と、
私がすぐ近くにいることを知らないで、私に気付くまでの長い時間、
夫婦で喋っていたことがありました。

画像

拙宅前の道端だけの
草花たちは、今年も
「根こそぎ」の掛け
声のもと、全部毟り
取られました.

「オレガ」夫婦が雑草を毟り取り、花を切り取る様子を手伝ったり、
側で見ていた近隣の人たちは、数日間は、腰を引くような格好で私を
避けます。
私が雑草に時々水をあげ、咲かせた小さな花を写真を撮っているのを
知っているので、後ろめたさを感じているのかも知れません。

「オレガ」夫婦は、私に会うと目を逸らし、拙宅に訪問者が来ると、
カーテンの隙間から様子を観察しています。

そして、「オレガ」夫は、近隣を味方にするために野菜を配り歩き、
その直後「オレガ」婦が、私を非とする嘘デマを流して歩きます。

画像画像

 10m離れた隣班の道端には草花たちが残り、 タチアオイも細紐で
 倒れないように止められてしっかり咲いています.
 心の荒んだ人たちの多い街区との違いが表れているようです.


面白いことに、近隣の人はその嘘デマを信じますし、自治会副会長も
拙宅前で嫌がらせの大声を張り上げたこともありました。
その時は、さすがに抗議しましたが、結局はウヤムヤにされました。

私は、そうした地域の「輪」には入りたくないし、さりとて「越すに
越されぬ」経済的事情があるので、耐えるしかないと諦めています。
仕返しすれば、虚しい応酬を繰り返すだけでしょうし、「オレガ」と
子分たちに対峙すれば、自分の生き方が汚れると思うからです。

画像画像

 道端の雑草も花を咲かせるし、土が乾燥して死んでいくのを防いで
 いますから、上手に付き合えば豊かな環境育成に有効です.
 これを理解できる人が、この近隣にいないのは寂しいです.


「オレガ」夫婦は、彼らの方法で、50年近く生きてきたのですから、
彼らの生き方が急に変わることはないと思います。

私も、誰かの子分のように振る舞うことも、子分たちと群れることも、
誰かに気に入られようと尻尾を振ることもしたくありません。
イヤガラセを我慢することは、その代償だと思います。

心が強ければ、どんな陰湿なイヤガラセも、飄々として受け流せると
思います。
そうした心の持ち方を会得されている方を、羨ましいと思います。

160621
□□□□□
(註) いつも近隣の中心であろうとして「俺が...俺が...」と言うので、
 「オレガ」とアダ名しています。


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