建築再読-J.17 根津神社-2

建築再読-J.17 根津神社-2怨念の梗塞~愛念の広がり定説を外れた異端の視点で自由に想像して建築を読み返しています. 前稿「J.17 根津神社-1/梗塞すべき怨念」の続編です.https://itan-no-saidoku.at.webry.info/202005/article_2.html□□□□□□□根津神社 /企画:徳川綱吉、設計・監修:不明 /東京都文京区根津/1706年(江戸時代前期)□□□□□□□ (左/註09) 明治時代の楼門. 境内の様子が現在とかなり違っています.(右) 楼門の東側は街の広場のような空間です. この空間があるので、 本来は厳しい印象のあるこの神社に、親しみやすさが感じられます.□□□□□□□ このように古代史を概観すると、3世紀末(古墳時代)に「日本武」が「千駄木」の団子坂の坂上の南側に「素戔嗚」を創祀したという伝承の意味が見えてくるような気がします。 「素戔嗚、大国主(=素戔嗚の後継者)、大物主(=素戔嗚の孫)」は朝廷に酷い仕打ちをされたために、大怨霊となりました。朝廷は、その祟りを非常に畏怖していたのです。 また、「素戔嗚」と「日本武」の伝説には深い関係性があります。・双方共に、乱暴者だから肉親に疎まれ、故郷を追い出されました。(素戔嗚の肉親は姉の天照大神、日本武の肉親は父の景行天皇、と創作) 両者共に朝廷に都合の悪い存在ですから、乱暴者だと印象操作して、 貶めておく必要がありました。 ・「日本武」の「草薙剣」は、元々「…

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建築再読-J.17 根津神社-1

建築再読-J.17 根津神社-1梗塞すべき怨念定説を外れた異端の視点で自由に想像して建築を読み返しています.□□□□□□□根津神社 /企画:徳川綱吉、設計・監修:不明 /東京都文京区根津/1706年(江戸時代前期)□□□□□□□  (註01) 昔は根津付近まで 東京湾の入江でした. その入江の最も奥だから 「根津」の地名になった のだそうです. 「根津神社」は、東京都文京区根津にあります。東京大学の赤門から直線で約1Km、真北の位置です。皇居(江戸城)のほぼ真北の方向でもあります。 東京メトロ千代田線「根津」駅か「千駄木」駅から歩くと、10分弱の距離にあります。 厄除け・縁結びのご利益を求めて、いつも人が訪れています。そして、近隣の人たちが散歩に立ち寄る、憩いの広場でもあります。  (註01) 1680年(延宝8)の 文京区の近辺です. 不寝権現のある元根津も、 後に遷座する根津権現の 辺りも、人家の少ない地 域のように見えます. 「根津神社」は、かつては「千駄木」にあって、呼称は「不寝権現」でした。以下に「不寝権現(根津神社)」の「千駄木」時代を概観します。 ■3世紀末(古墳時代)「日本武」が「千駄木」の団子坂の上の南側に「素戔嗚」を創祀して「社」(根津神社の原初)を建立しました.■15世紀後半(室町時代)太田道灌が、荒れていたらしい「素戔嗚の社」に社殿を奉納しました. ■17世紀前半(江戸時代前期)家光が「素戔嗚の社」の社地を、太田資宗(道灌の子孫)に下屋敷地と…

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建築再読-F.17-2 パルテノン神殿-2

□□□□□□□<big>建築再読-F.17-2 パルテノン神殿-2</big><big>「平和の象徴の神殿への昇華」</big>定説を外れた異端の視点で自由に想像して読み返しています. 前稿「女神像と金塊を収蔵する宝物庫」の続編です.https://itan-no-saidoku.at.webry.info/202003/article_3.html□□□□□□□パルテノン神殿 (Parthenon) /Pheidias(フェイディアス/BC.480-BC.430) /BC.447-BC.438(建築のみ)-BC.432(全体竣工) /Athens□□□□□□□  (註18) 1906年のイラスト. パルテノン神殿の屋根には トップライトがあります. 「アテナ女神像」は、二つの「パワー源」を、一つのオブジェに集約した彫像です。「アテネの守護神」と「デロス同盟=アテネ帝国の軍資金」です。 「パルテノン神殿」は、その「アテナ女神像、即ち金塊」を収蔵する「宝物庫」なのです。 一般市民は内部に入ることはできませんから、外観を見て「女神像=金塊」の存在を意識します。ですから、内部の装飾よりも、外観のデザインが重要になります。「アテネの栄華」と「帝国の強さ」の象徴に相応しい「神殿=宝物庫」の外観にしなければならないのです。 そこで、「帝国の強さ」は、男性的で剛健な「ドーリック・オーダー」の円柱形式に象徴します。 「アテネの栄華」は、その…

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建築再読-F.17-1 パルテノン神殿-1

□□□□□□□<big>建築再読-F.17-1 パルテノン神殿-1</big><big>「女神像と金塊を収蔵する宝物庫」</big>定説を外れた異端の視点で自由に想像して読み返しています.□□□□□□□パルテノン神殿 (Parthenon) /Pheidias(フェイディアス/BC.480-BC.430) /BC.447-BC.438(建築のみ)-BC.432(全体竣工) /Athens□□□□□□□ (註01) BC.10c-BC.5cの ギリシャとエーゲ海. ペロポネソス半島の先住民の 一部は、遅れて南下してきた ドーリア人に圧迫され、小アジア西岸に移動しました. 古代ギリシャ時代は、広義では、BC.68世紀(新石器時代)からAD.2世紀までの、約7千年の期間です。狭義では、BC.8世紀からAD.2世紀までの、約千年間です。 以下に「パルテノン神殿」に関わる古代ギリシャ時代を概括します。 ■BC.20世紀...アカイア人がギリシア中部からバルカン半島を南下し、 ペロポネソス半島に定住しました。■BC.16世紀...ペロポネソス半島は森林環境の豊かな地域でした。■BC.13世紀...自然豊かな土地でしたから、人口が増加しました。 人口増加は必然的に農地拡大を招くので、森林破壊が進んで、自然 環境は次第に衰退しました。■BC.12世紀...鉄器を使うドーリア人が南下し、集住しました。 (左/註02) ペロポネソス半島.…

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建築再読-F.14 ブラッスリー・プランタン(カフェ・フロ) -追記

「F.14 ブラッスリー・プランタン(カフェ・フロ) -1」https://itan-no-saidoku.at.webry.info/201212/article_1.html「F.14 ブラッスリー・プランタン(カフェ・フロ) -2」https://itan-no-saidoku.at.webry.info/201212/article_2.htmlに続く追記です.□□□□□□□F.14 2016年08月のブラッスリー・プランタン「明るさは陰翳を消して...」定説を外れた異端の視点で自由に想像して読み返しています.□□□□□□□ブラッスリー・プランタン(カフェ・フロ)のクーポールCoupole du Brasserie Printemps(Cafe Flo) /ジョルジュ・ウィボ & ブリエレ/パリ.フランス/1923年 (Georges Wybo & Briere/Paris.France)□□□□□□□2006年、ブラッスリー・プランタンは、ディジエ・ゴメズ(DidierGomez/1953-/インテリアデザイナー)によって新装されました。
そして2007年から2010年にかけて、外壁が修復工事されました。 2016年に再訪した「ブラッスリー・プランタン」は、1989年時の「カフェ・フロ」の雰囲気はすっかり変わっていました。 27年前の「カフェ・フロ」は、失礼な表現ですが、腹を空かした一般庶民が昼時にワッと集まるような雰囲気の、ビュッフェ・スタイルのブラッスリーでした。 薄暗く、テー…

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建築再読-J.00-10 私家版-日本古代史年表-10/10

□□□□□□□定説外の視点と自由な発想でまとめた古代の年表です.古代建築の「異端の再読」のベースにしています.□□□□□□□前稿「私家版-古代年表-09」の続編です.https://itan-no-saidoku.at.webry.info/201906/article_3.html□□□□□□□□□□<図-31>□□ <1185-1335/鎌倉時代>[伊勢神宮][1303]絵図...東西宝殿は正殿の[前方]配置.「棟持柱」はない.[1304](嘉元2)遷宮遷宮(33回目) [杵築(出雲)大社][1190]遷宮造営.[1235]社殿が傾倒.[1248]遷宮造営...本殿に階段の屋根がない(杵築大社并神郷図)[1261]社殿が鳴動.[1268]火災焼失.[1270]社殿造営...高さを8丈(24m)に縮小→以後は倒壊の記録なし. □□□<図-32>□□ <1336-1573/室町時代>[伊勢神宮][1391](明徳2)遷宮遷宮(37回目)[1392](南北朝)東西宝殿は正殿の[前方]配置.「棟持柱」は不明.[16c](室町)宝殿は正殿と[並列]配置.「棟持柱」はない. [杵築(出雲)大社][1486]焼失.[1539]仮殿遷宮. □□□<図-33>□□ □□□<図-34>□□ <1573-1868/桃山江戸時代>[伊勢神宮][1585](天正13)式年遷宮(41回目)...東西宝殿は正殿と[並列]配置…

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建築再読-J.00-09 私家版-日本古代史年表-09/10

□□□□□□□定説外の視点と自由な発想でまとめた古代の年表です.古代建築の「異端の再読」のベースにしています.□□□□□□□前稿「私家版-古代年表-08」の続編です.https://itan-no-saidoku.at.webry.info/201906/article_1.html□□□□□□□□□□<図-27>□□ <710-794/奈良時代>[710-784](元明4-桓武4)<大和>平城京遷都(奈良市・大和郡山市)[681-712](天武8-元明6)<大和>古事記の編纂.[703-720](文武7-元正5)<大和>日本書紀の編纂. <古事記・日本書紀>「持統」と「藤原不比等」が編纂した歴史書. ...「壬申の乱」(672)の勝者だった「天武系皇族・葛城族・出雲族」  が没落して、敗者だった「天智系皇族・藤原氏・百済系部族」が  「持統朝」の時期に権力者となった、その直後に編纂した正史.  ...編纂方針を遂行するために歴史や系図を改ざんした.  ・「持統の賛美」  ・「藤原氏の出自の隠蔽と正統化」  ・「蘇我氏の逆賊化」  ✦「饒速日」(=天照/アマテル)が日本の初代王であることを隠蔽. ✦「素戔嗚」も「大国主」も朝廷が出雲国に追放したと捏造.  ✦皇祖神を「高皇産霊」から「天照(アマテラス)大神」に変更.  (しかし平安時代でも皇室は「天照大神」を祀っていなかった) ✦「饒速日(=天照/アマテル)の元にいた…

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建築再読-J.00-08 私家版-日本古代史年表-08/10

□□□□□□□定説外の視点と自由な発想でまとめた古代の年表です.古代建築の「異端の再読」のベースにしています.□□□□□□□前稿「私家版-古代年表-07」の続編です.https://itan-no-saidoku.at.webry.info/201905/article_5.html□□□□□□□□□□<図-24>□□ [667](天智元)<近江>「中大兄皇子」[41歳/百済系]が大津宮(大津市)に遷都し「天智天皇」 (667-672)に即位した. ...この頃「大王/おおきみ」から「天皇」の称号が一般化する.[668](天智元)<尾張>熱田神宮の「天叢雲剣」が新羅人の僧「道行」に盗まれた. ...盗犯理由=剣の神通力で祖国の新羅を強国にするため.[673](天武元)<近江>「壬申の乱」 ...「天智」(百済系)は「白村江」へ派兵して大敗した. →この機に乗じ「大海人皇子」は「縄文海人族」(尾張氏/県犬養氏/  安曇氏)に支援を頼み「天智」の皇子「大友皇子」に謀反した. →地方豪族を味方に付けた「大海人皇子」が勝利し、「天武天皇」  (新羅系)に即位した. →百済色の強い「天智」派は懐柔された. →以後も「百済系」(持統/文武/聖武)と「新羅系」の政争が続くが、 「桓武天皇」(781-806)以降は朝廷は「百済系」勢力に収斂した. <「天武」の出自>・日本書紀は「天武」は「天智」の実弟だと記載しているが、実際は 「天武」が年上の異父兄…

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建築再読-J.00-07 私家版-日本古代史年表-07/10

□□□□□□□定説外の視点と自由な発想でまとめた古代の年表です.古代建築の「異端の再読」のベースにしています.□□□□□□□前稿「私家版-古代年表-06」の続編です.https://itan-no-saidoku.at.webry.info/201905/article_4.html□□□□□□□□□□<図-21>□□ <5c/古墳時代中期>[4c末](仁徳朝)<出雲>「蘇我氏」の支援を受ける「意宇氏」(出雲臣)は出雲東部(意宇郡)に 居住し、大和政権の下で財務運営に携わっていた. ...「意宇氏」は「クナト神」(出雲族の祖神)と「事代主」を「熊野  大社」(以前は「素戔嗚」が祭神)の祭神としていた. ...「熊野大社」の以前の祭神は「素戔嗚」(意宇の地主神)だったが  [3c後期]に「出雲氏」と共に「意宇」から排除されていた.  →「応神」崩御の時、「額田大中彦」(応神の皇子)が「意宇氏」の  管理する領地の譲渡を迫った. →「意宇氏」は「大中彦」に抵抗し、出雲東部(意宇郡)を護った. →「大中彦」の野望は異母弟の「大鷦鷯尊」(後の仁徳大王[天皇])  に阻止された.[4c末-5c末](仁徳朝)<出雲>「物部氏」の支援を受ける「出雲氏」(斐伊川流域の発祥)は出雲西部 (出雲郡)に居住していた. ...「出雲氏」は、以前の居住地の意宇郡(出雲東部)の地主神である  「素戔嗚」を「杵築の社」に祀り信奉していた. ...「物部氏」(出雲氏を支援)と「…

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建築再読-J.00-06 私家版-日本古代史年表-06/10

□□□□□□□定説外の視点と自由な発想でまとめた古代の年表です.古代建築の「異端の再読」のベースにしています.□□□□□□□前稿「私家版-古代年表-05」の続編です.https://itan-no-saidoku.at.webry.info/201905/article_2.html□□□□□□□ □□□<図-18>□□ [282](垂仁元)<大和-纏向>「活目入彦五十狭茅」[26歳]が「垂仁大王[天皇]」(在位282-292)に 即位し、纏向の珠城宮に遷都した.[289](垂仁8)<大和-葛城>・「垂仁」[33歳]は、葛城(鉄の精錬所がある)を支配した.・さらに、葛城の豪族と「出雲族」の弱体化するため「野見宿禰」と 「当麻蹶速」の「出雲族」同士を戦わせた.  ...「当麻蹶速」=「葛城王朝」側の出雲族.   「野見宿禰」=「三輪王朝」側の出雲族で、野見(桜井市出雲村          初瀬/島根県の出雲ではない)の豪族.  →「野見宿禰」は戦勝したが、後に大和から追放された. ■■「8c初期、持統と藤原不比等の記紀」に歴史創作■■・同族同士の戦闘を「相撲伝説」に偽作し、「野見宿禰」を島根県の 出雲から1日で呼び寄せたかのように創作した. ・「出雲」を「根国」に限定し、「大和の出雲村」を隠蔽した. ・稲(根)国(出雲)の豪族が、朝廷の支配下にあることを強調した. ・同族同士が戦うようにを仕向けたことを「相撲」見物に偽作し、  流血させたことを隠蔽した. …

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建築再読-J.00-05 私家版-日本古代史年表-05/10

□□□□□□□定説外の視点と自由な発想でまとめた古代の年表です.古代建築の「異端の再読」のベースにしています.□□□□□□□前稿「私家版-古代年表-04」の続編です.https://itan-no-saidoku.at.webry.info/201904/article_3.html□□□□□□□ □□□<図-14>□□ <3c後期-4c/古墳時代前期>[248](崇神元)<大和-磯城>・大和で縄文系部族の反乱が頻発した. →「御眞木入日子印恵」[19歳]が大和を再統一した.・「御眞木入日子印恵」 は「崇神大王[天皇]」(在位248-281)に即位 して磯城の瑞籬宮(桜井市金屋)に都を定めた.  =「三輪王朝」(崇神[10代/248]~仲哀[14代/333])の皇統. ・「葛城王朝」(240-248)=弥生時代末期...体制=大王[天皇]+鴨氏・「三輪王朝」(248-333)=古墳時代前期...体制=大王[天皇]+三輪氏・「河内王朝」(370-531)=古墳時代中期...体制=大王[天皇]+物部氏 ・「三輪王朝」の代々王[天皇]は、三輪の豪族「三輪氏」(大物主の 後裔/出雲族)と婚姻関係を結び、連合政権を組んだ.  ...この頃は「三輪王朝」は「出雲族」を厚遇していた.   (神器の行法[秘儀]を「出雲族」だけが知っていたから)[3c後期](崇神朝)<大和-三輪>・「大物主」は「崇神」に殺害された(...時期や経緯は不明) →「大物主」は怨霊…

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建築再読-J.00-04 私家版-日本古代史年表-04/10

□□□□□□□定説外の視点と自由な発想でまとめた古代の年表です.古代建築の「異端の再読」のベースにしています.□□□□□□□前稿「私家版-古代年表-03」の続編です.https://itan-no-saidoku.at.webry.info/201904/article_3.html□□□□□□□□□□<図-12>□□ [235]<大和-出雲>「大物主」[55歳]が大和の「出雲」(天理市周辺)を統治した.[238]<難波ー大和>「伊波礼毘古」[57歳]は生駒山西麓の白肩津(東大阪市日下町付近)に 上陸し、生駒山の東を越えて、大和の中洲(大和平野)に侵攻した.[238]<河内>「伊波礼毘古(後の神武)」[57歳]は河内に至り、鳥見(桜井・生駒)の 大豪族「長髄彦」[58歳]の畿内軍と激戦した. →「伊波礼毘古」は、兄「五瀬命」が負傷して背走した. →「長脛彦」の軍は追討しなかった(不要な殺生を嫌う縄文人の気質   を受け継いでいるため、先制攻撃せず、専守防衛のみ) →「伊波礼毘古」軍は、海路で紀伊半島の南側に迂回して、紀伊の   雄水門に至り、ここで「五瀬命」が死亡した. →「伊波礼毘古」軍は、紀伊半島南端の熊野に航行し、新宮と那智   勝浦の中間地点付近に上陸した.[238]<熊野>・「伊波礼毘古(後の神武)」[57歳]の軍は丹敷浦(那智湾)に進軍した. →那智大社付近で「長髄彦」に味方する女豪族「丹敷戸畔」と交戦  した(戸畔は女酋長…

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建築再読-J.00-03 私家版-日本古代史年表-03/10

□□□□□□□定説外の視点と自由な発想でまとめた古代の年表です.古代建築の「異端の再読」のベースにしています.□□□□□□□前稿「私家版-古代年表-02」の続編です.https://itan-no-saidoku.at.webry.info/201904/article_1.html□□□□□□□□□□<図-10>□□ [200]<大和-田原本>「長髄彦」[20歳]が大和国と熊野を統治し、田原本を都とした. ...「長髄彦」は「銅鐸祭祀文化圏」[近畿-東海/BC.2c-AD.2c]の  最大で最後の王となった. ...銅鐸は、北部九州の鋳型の最新技術を所有する青銅器工房で製作  されて、近畿に配送されていた.[200]<大和-鳥見>「饒速日」[50歳]は河内(大阪府交野市)に侵攻し、さらに鳥見(桜井市) に進出した. →「饒速日」は、纒向(桜井市)に本拠を構えて、「長髄彦」の妹の  「美炊屋姫」を后に迎え、「長髄彦」と融和した.[200]<大和>三豪族による連合政権が大和国を統治した. ・「饒速日」[50歳](桜井市纒向)...「素戔嗚」の子. ・「長髄彦」[20歳](田原本)...「事代主」の子(=素戔嗚の孫) ・「大物主」[20歳](桜井市三輪)...「饒速日」の子(=素戔嗚の孫)[205]<大和-葛城>「饒速日」[55歳]は拠点を葛城に遷し、国を「日本」と名付けた.[205]<瀬戸内海>「事代主」[45歳]が瀬戸内海を…

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建築再読-J.00-02 私家版-日本古代史年表-02/10

□□□□□□□定説外の視点と自由な発想でまとめた古代の年表です.古代建築の「異端の再読」のベースにしています.□□□□□□□前稿「私家版-古代年表-01」の続編です.https://itan-no-saidoku.at.webry.info/201903/article_2.html□□□□□□□□□□<図-07>□□ <1c中期-3c中期/弥生時代後期>[150]<稲(根)国(出雲)>「饒速日(天照国照彦火明櫛玉饒速日)」(150-210)が、「素戔嗚」 [28歳]に誕生した(雲南市須我神社[製鉄関連の土地]付近) (饒速日=天照=「アマテル」...天照大神=「アマテラス」ではない) ...「饒速日」は物部氏の祖先(出雲族)となる.[157]<宇佐>「素戔嗚」[35歳]は、瀬戸内海と宇佐国を統一して、「葦原中津国」 (出雲国)を拡大した.[160]<稲(根)国(出雲)>「多比理岐志麻流美」(160-220)が、出雲国の王「天冬衣」(素戔嗚 の子/出雲族)に誕生した(出雲市姫原比那神社) →[184]に「大国主-6代」となる.[160]<北九州>「事代主」(160-?/出雲族)が、「素戔嗚」[38歳]と「神屋楯比売」に 誕生した(松江市美保神社付近)[162]<北九州>「素戔嗚」[40歳]が「高皇産霊」[22歳]と交戦した. →「素戔嗚」が戦勝して北九州を統治し「葦原中津国」を拡大した.[172]<大和&g…

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建築再読-J.00-01 私家版-日本古代史年表-01/10

定説外の視点と自由な発想でまとめた古代の年表です.古代建築の「異端の再読」のベースにしています.□□□□□□□古代の建築空間をイメージするに、その建築を必要とした社会背景を概観することは必要であり、年表は、その有効な手段の一つです.しかし、古代の歴史には様々な見解があって、年表もまだ確定されていないようです. そこで、独断と粗雑の誹りを覚悟の上で、「私家版-古代史年表」の作成を試みることにしました. 作成にあたっては、先学の様々な見解を参照しました.しかし、「記紀」の神話に傾倒したり、百数十歳という人間の寿命を前提にした推論は、参考の対象から除外しました. 「歴史は勝者が作った」という認識は、既に一般化しています.特に「記紀」は「藤原氏が創作した歴史書」であると知られています.この「私家版-年表」も、そうした認識の上に立ち、勝者に貶められた敗者の名誉を回復し、勝者と敗者を対等にみて作成するよう努めました. また「記紀」を参照する際は、その時系列を分解し、年齢や現実性と矛盾しないように組み立て直すような視点で考察しました. この「私家版-年表」は、そうして整理したので、「記紀」に傾倒した歴史観とは、異なる見解が点が多々あります. また、歴史は、日本各地の氏族や事件が複雑に絡み合って形成されていくものだと思いますが、ここでは主に出雲大社と伊勢神宮に関係が深いと思われる事象を中心に整理しています.□□□□□□□□□□<図-01>□□ <旧石器時代>[BC.200c]…

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建築再読-F.16-4 /4 ギザのピラミッド試考 -4

□□□□□□□建築再読-F.16-4/4 ギザのピラミッド試考-4「太陽と魂の舞う舞台のピラミッド群」定説を外れた異端の視点で自由に想像して読み返しています.前稿「F.16-3/4 冥界と現世界の結界線のピラミッド群」の続編です.http://itan-no-saidoku.at.webry.info/201504/article_4.html□□□□□□□ギザの3基のピラミッド群/ヘムオン/カイロ近郊/BC.2550年頃□□□□□□□ (註27) カフラー王のピラミッド. 内部が単純に造られている ので、外観を優先して構築 したのかも知れません. 異母兄を殺害してファラオになった「ジェドエフラー王」は、異母弟(クフ王の三男)の「カフラー」に殺害されました。 「ジェドエフラー王」は過去回帰した裏切り者ですから、彼の施政は反対派によって完全に破棄されます。ピラミッドも破壊され、石像も多くが壊されました。 ・カフラー(Khafre)…生年=不明. 在位=BC.2558-2532. 「カフラー王」は首都をカイロに戻し、父「クフ王」のピラミッドのすぐ傍に、自分のピラミッドを建造しました。 その組織の中枢には、以前に「ヘムオン」から技術と構想を継承していた技術者がいたと思います。 その建設地に、ピラミッドの「核」となる自然の岩山があったのかは不明ですが、もし「核」がなければ難工事だったと思います。 あるいは予算不足だったのか、「クフ王」のピラミッドよりも内部はかなりシンプルに造られているよ…

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建築再読-F.16-3 /4 ギザのピラミッド試考 -3

□□□□□□□建築再読-F.16-3/4 ギザのピラミッド試考-3「冥界と現世界の結界線のピラミッド群」定説を外れた異端の視点で自由に想像して読み返しています.前稿「F.16-2/4 天空を舞う魂の舞台のピラミッド」の続編です.http://itan-no-saidoku.at.webry.info/201504/article_3.html□□□□□□□ギザの3基のピラミッド群/ヘムオン/カイロ近郊/BC.2550年頃□□□□□□□ (註15) クフ王のピラミッド BC.2570頃(仮定) (BC.2540/2520頃)の 説もあります. 底辺:230×230m、 高さ:147m. 「クフ王」グループは、「スネフェル王」からの王位継承をアピールするために、巨大なピラミッドを構築してみせる必要がありました。そして、生かし残しておいた「ヘムオン」に建設させました。 ・クフ(Khufu)…生没年=不明. 在位=BC.2589年-2566年.・ヘムオン(Hemiunu)…生没年=不明. 「ヘムオン」は、「クフ王」の異母兄弟の息子、甥に当たります。しかし「クフ王」にとっては、忠誠心を示されても、いつかは謀反を起こして復讐するかもしれない危険な存在です。 「クフ王」は、「ヘムオン」にいつも恐怖を感じていたと思います。伯父と甥が、本来の立場を逆転して国王と家臣の関係になった訳ですから、二人の間には厳しく冷たい緊張感が漂っていたと思います。 ある説によれば、「ヘムオン」は父「ネフェルマアト」が殺害され…

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建築再読-F.16-2 /4  ギザのピラミッド試考-2

□□□□□□□建築再読-F.16-2/4 ギザのピラミッド試考-2「天空を舞う魂の舞台のピラミッド」定説を外れた異端の視点で自由に想像して読み返しています.前稿「F.16-1/4 北極星軸と太陽軸のピラミッド」の続編です.http://itan-no-saidoku.at.webry.info/201504/article_2.html□□□□□□□ギザの3基のピラミッド群/ヘムオン/カイロ近郊/BC.2550年頃□□□□□□□  段の積み重ねよりも、 平滑な四角錐の方が、 飛翔のスピード感を イメージしやすいと 思います. 「階段ピラミッド」の外観は、段々状に積み上がっていく形です。それが、「魂」が北口を出て、ゆったり踏みしめるように、天に上昇していく様子をイメージさせます。 それ以降のピラミッドの外観は、段々の積層感のない、表面が平滑な単体の「四角錐」の形に造られます。 「四角錐」の太陽光を反射して輝く姿は、段々に上昇するイメージに代わって、スピード感のある急上昇していくイメージを誘います。 「魂」がピラミッドから勢いよく飛び出し、天空に吸い込まれていくように、一直線に天空を昇っていくイメージが出来上がったのです。 (左/註10) 地球は、植物に覆われて横たわる、大地の神ゲブの姿です. 天空は、大気の神シュー(ヌトとゲブの父)に持ち上げられて身体を 折り曲げた、天空の女神ヌト(ゲブの妹であり妻)の姿です.(右) 猛スピードで北天に上昇する「魂」は、途中から、ヌトの身体に 沿って…

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建築再読-F.16-1 /4  ギザのピラミッド試考 -1

□□□□□□□建築再読-F.16-1/4 ギザのピラミッド試考-1「北極星軸と太陽軸のピラミッド」定説を外れた異端の視点で自由に想像して読み返しています.□□□□□□□ギザの3基のピラミッド群/ヘムオン/カイロ近郊/BC.2550年頃□□□□□□□ (註01)「下エジプト」は農業に 適した湿地帯で、放牧も 行われていました.「上エジプト」は土地は 少ないのですが、農業の 技術は発展しました. 紀元前3500年頃のエジプトは、二つの国家に分かれていました。カイロから北のナイル河のデルタ地帯の「下エジプト」、カイロから南のアスワン辺りまでのナイル河流域地帯の「上エジプト」です。 紀元前3150年頃、エジプト北部からメソポタミアのシュメール人が移動してきてエジプトを統一し、王朝を創始しました。 彼らは祖先を崇拝し、「北極星」に祖先が北から来たことを象徴させ、これを神聖視していました。外来のエジプト民族である彼らは「星信仰派」と言われています。 一方、先住のエジプト民族は、これに刺激され、国の風土を象徴する「太陽」を崇めて民族意識を高揚しました。彼らは「太陽信仰派」と言われ、「星信仰派」に対峙します。  (註02) マスタバ. 上エジプトの墓の伝統と、 下エジプトの地下埋葬の 伝統が並存する形態です. BC.3000頃-BC.2000頃、エジプトの王侯貴族は「マスタバ」という墳墓を築造していました。メソポタミアの建築様式に由来する、箱状の建造物です。 大型の「マスタバ」は、平面が…

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建築再読-J.16 慈照寺 -2 東求堂同仁斎

□□□□□□□建築再読-J.16 慈照寺 -2 東求堂同仁斎「和の心の四畳半」定説を外れた異端の視点で自由に想像して読み返しています.「J.16 慈照寺 -1 庭園ー三尊イメージの庭園」の続編です.http://itan-no-saidoku.at.webry.info/201405/article_4.html□□□□□□□慈照寺 東求堂 同仁斎 /足利義政/京都市左京区銀閣寺町/1486年(室町時代後期)□□□□□□□(左/註07)現在地の南西側のスケッチです.(右)南東側のスケッチです. 同仁斎は右奥の部屋です.□□□□□□□東求堂は、元々は、向月台の辺りの錦鏡池に面して建っていました。前面は池、両側面と背面には小規模な自然が作庭され、建物を囲んでいたと思います。 義政は、その東求堂を中心に観音殿と錦鏡池を組み込んで、「阿弥陀三尊」の救済エネルギーをイメージする装置を用意しました。 さらに義政は、「能・茶」「数寄・わび」などの美意識を創意して、人と争わず自己を内省する文化の醸成を考えていたと思います。 その試みは、東求堂の東北角の四畳半居室「同仁斎」にあります。東求堂は、造園に着手して4年後に完成した、住宅風の仏堂です。 「同仁斎」は、東求堂の北東隅にある、義政の書斎です。四畳半の居室「同仁斎」の「同仁」は平等な愛、「斎」は心を清浄にするために籠る空間を意味しています。 (左)舞良戸(板戸)を開けた同仁斎です.(右)東求堂の北東側です.「同仁斎」の額が背面にあるのは、建物の 背後は…

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建築再読-J.16 慈照寺-1 庭園

□□□□□□□建築再読-J.16 慈照寺-1 庭園「三尊イメージの庭園」定説を外れた異端の視点で自由に想像して読み返しています.□□□□□□□慈照寺庭園 /足利義政/京都市左京区銀閣寺町/1490年頃(室町時代後期)□□□□□□□ (註01) 慈照寺は、京都御苑や 室町幕府(花の御所)から 3.4kmほどの東方にあり ます. 図中の室町幕府の画像は「洛中洛外図屏風」(上杉 本の左隻)の一部です. 室町幕府(1336-1573)は、側近や有力武将の勢力が強く、将軍といえども容易に強権を行使できる環境にありませんでした。 一時期を除いて、権力基盤は脆弱であり、動乱を鎮圧する兵力もなく、いつも政情は非常に不安定でした。 義政(1435-90)が8代将軍の時期(1443-73)には、応仁の乱(1467-1477)が勃発し、その後は戦国時代(1493-1573)に突入します。 その上、天変地異も頻発し、民衆は大変に疲弊していました。凶作や地震が続き、都は行倒れや争いによる死人で溢れていました。  (註01) 室町時代の遺構は観音殿 (銀閣)と東求堂の2棟です. 庭園は江戸時代に改修され、 創建時の雰囲気はほとんど 失われています. 義政は、武事より文事を好み、争いを好まない性格であったためか、政治の混乱を収拾できないと悟ると、すぐに職務を回避しました。 そして、貧窮する民衆を顧みず、逆に新たな税を課し、趣味の世界や異常な造営趣味、酒と遊興に耽っていきました。 そうした義政は、恐妻家、怠惰…

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建築再読-F.15-1 サン・ミニアト・アル・モンテ聖堂 -1

□□□□□□□建築再読-F.15-1 サン・ミニアト・アル・モンテ聖堂 -1「街を包む祈りの空間」-1定説を外れた異端の視点で自由に想像して読み返しています.□□□□□□□サン・ミニアト・アル・モンテ聖堂Basilica di San Miniato al Monte/Firenze,Italia /フィレンツェ/1018-62年. ファサード:1170年頃(ロマネスク)□□□□□□□ (註01) フィレンツェの名称は、 古代ローマ時代の町名「フロレンティア 」 (Florentia/花の女神の フローラの町)に由来 するそうです. 紀元前10世紀に小集落が存在していましたが、現在のフィレンツェの町の形は、BC.59年に建設されたローマ帝国の植民都市に起源します。 AD.250年、キリスト教が公認される63年前、町の東側のベッカリア広場付近で、聖ミニアトが異端者として斬首されました。 彼は切り落とされた頭部を手に持ってアルノ川を渡り、丘を上がって街を一望できる所、つまり「サン・ミニアト・アル・モンテ聖堂」の建つ場所に行き着いた、と伝えられています。 処刑場から南南西の方向に直線距離でおよそ1.3km離れた地点まで、当時は健常者でも楽ではない山道を死して辿ったというのです。 彼が行き着いた場所は彼の住まいでしたが、この伝説は、家に帰ろうとする彼の執念を説明するためのエピソードではないと思います。 聖堂の神秘性をアピールする意図もないと思います。ともあれ、そこは聖地となり、8世紀に…

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建築再読-F.15-2 サン・ミニアト・アル・モンテ聖堂 -2

□□□□□□□建築再読-F.15-2 サン・ミニアト・アル・モンテ聖堂 -2「街を包む祈りの空間」-2定説を外れた異端の視点で自由に想像して読み返しています.前項「街を包む祈りの空間 -1」の続きです.http://itan-no-saidoku.at.webry.info/201309/article_1.html□□□□□□□サン・ミニアト・アル・モンテ聖堂Basilica di San Miniato al Monte/Firenze,Italia /フィレンツェ/1018-62年. ファサード:1170年頃(ロマネスク)□□□□□□□ 外陣の突き当りの設備は「磔刑の礼拝堂」です. その後方に、地下聖堂への アーチの入口、その上階に 内陣があります. 普通に撮影すると、この 程度に暗い写真になります. 聖堂内に入る時、一瞬、「アーチの輪」を潜るように錯覚します。そして「愛のエネルギー」を凝縮した「細長い空間」の中に入り込むような気がします。 入った直後は、薄暗い空間の中に、白い大理石の柱とアーチ下端が、ゆっくり浮かび上がるように見えてきます。 そして内部全体が見えてくると、列柱奥のアプス(最奥の半円空間)の半ドームの、渋く輝く金色のモザイク画に意識が集中してきます。 内部は、幅20m・奥行き50mほどの広さで、これを列柱で縦長3列に別けたバシリカ(basilica)形式で構成しています。 中央列は身廊といわれる一般礼拝者のための広間空間で、側廊よりも天井が高く、ある時間帯には高窓か…

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建築再読-J.15 第一生命館

□□□□□□□建築再読-J.15 第一生命館「街を囲むコロネード」定説を外れた異端の視点で自由に想像して読み返しています.□□□□□□□第一生命館 /渡辺仁. 松本輿作/東京都千代田区有楽町/1938年(昭和13)□□□□□□□(左/註01) 江戸幕府の開設期は、この辺りまで海が入り込んでいて、 それが埋め残されて日比谷濠になりました.(右/註02) 片側に広い杜と濠があって、中層建築の高さがほぼ揃って いますから、日比谷通りには比較的落ち着いた雰囲気があります. (左/註03) やや暗い通りの焦点に、明るい外苑の杜が見えています.(右/註03) 日比谷通りに出ると、視界が大きく開けて濠が見えます.□□□□□□□JR有楽町駅から西に行くと、ビルの谷間の奥に皇居外苑の東南隅部の樹々が、少しずつ見えてきます。 その通りを300mほど進むと、道幅の広い日比谷通りに突き当ります。そこで視界が大きく開けて、外苑の杜と濠の光景が広がります。 その地点の右手のビルが、部分保存された「第一生命館」です。L字形に折れて西に延びる日比谷濠に、正面を向けて建っています。  (註04)「第一生命館」と「DN タワー21」は、祝田橋 から見ると透視図的な 景観の焦点になります. 外観が濠の水面に映る 独特な立地環境です. 日比谷濠の西端の祝田橋から遠望すると、「第一生命館」の背後には似たような外観の高層ビル「DNタワー21」が立ち上がっています。長短2つのビルは、樹々と水路の作る透視図的な景観の焦点です。 さら…

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建築再読-F.14-2 ブラッスリー・プランタン(カフェ・フロ) -2

□□□□□□□建築再読-F.14-2 ブラッスリー・プランタン(カフェ・フロ) -2「春の花の舞い散る空間」-2定説を外れた異端の視点で自由に想像して読み返しています.前編「F.14 ブラッスリー・プランタン(カフェ・フロ) -1」からの続編です.http://itan-no-saidoku.at.webry.info/201212/article_1.html□□□□□□□ブラッスリー・プランタン(カフェ・フロ)のクーポールCoupole du Brasserie Printemps(Cafe Flo) /ジョルジュ・ウィボ & ブリエレ/パリ.フランス/1923年 (Georges Wybo & Briere/Paris.France)□□□□□□□ (註17) 私論です... 死者となったクロリスは、 ヴィーナスに祝福されて「魂」が神に迎えられる「魂の春」に至ります. 彼女の精霊は、ヘルメス によって絵画の中に導き 入れられます. 以下は、学説にとらわれないで「プリマヴェーラ」の解釈を試みた私論です。(註18)1.死者となった冬の大地の妖精クロリスが、ゼフュロスによってアフロディテ(ヴィーナス)の庭に優しく運ばれてきます。ゼフュロスは、死者を送り届ける役目を持つ、冥界の西風の神です。冬あるいは死者を抱いていたので、ゼフュロスの肌色は蒼白です。2.クロリスは、「聖なる結婚」を意味するヒメツルニチソウを口から放出して、「魂」が天に迎えられるよう希望しています。3.フローラは、赤いバラの衣裳…

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建築再読-F.14-1 ブラッスリー・プランタン(カフェ・フロ) -1

□□□□□□□建築再読-F.14-1 ブラッスリー・プランタン(カフェ・フロ) -1「春の花の舞い散る空間」 -1定説を外れた異端の視点で自由に想像して読み返しています.□□□□□□□ブラッスリー・プランタン(カフェ・フロ)のクーポールCoupole du Brasserie Printemps(Cafe Flo) /ジョルジュ・ウィボ & ブリエレ/パリ.フランス/1923年 (Georges Wybo & Briere/Paris.France)□□□□□□□(左/註01) オ・プランタンは、創業当時はパリ市の中心部からは 少し離れた位置にありました.(右) オペラ座正面の左の脇道を進むとプランタンです. オペラ座とプランタンは、ほぼ同時期の建築です.□□□□□□□ルーブル美術館から北西方向にオペラ通り(Av.de l'Opéra)を進むと、正面にオペラ座(l'Opéra/Charles Garnier/1875)が見えてきます。オペラ座は、内部を見学できるので、訪れる人の多いスポットです。 通りの両側の建物高さを揃えてヴィスタ(透視図的な眺望)を強調し、空間がバロック様式の正面に集中するように計画されています。 (左/註02) プランタンは3館で構成されています.(右/註03) 正面はコスメ・メゾン館、右奥の建物はモード館です.□□□□□□□オペラ座の正面左から北西の通りを400mほど進むと、オスマン通り(Bd.Haussmann)の交差点に出ます。その右側に、プランタン百貨店(Maga…

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建築再読-J.14 唐招提寺金堂 -2

建築再読-J.14 唐招提寺金堂 -2「癒しの波紋の広がる空間」-2定説を外れた異端の視点で自由に想像して読み返しています.前編「J.14 癒しの波紋の広がる空間-2」からの続きです.http://itan-no-saidoku.at.webry.info/201210/article_1.html□□□□□□□唐招提寺 金堂 /8世紀後期(奈良時代後期)/奈良市五条町□□□□□□□(左)左の画像は金堂の3仏像、右の画像は講堂の仏像です.(右)講堂の前身建物は平城宮の東朝集殿です. 高級官僚の出仕前の 控えの場で、壁と扉のない開放的な建物した.□□□□□□□唐招提寺の金堂には、中心に「廬舎那仏」が座して、右(東)側に「薬師如来」、左(西)側に「千手観音」が立っています。 3体ともに、台座を含めると高さが5mを超える大きな仏像です。それらは「過去・現在・未来」を司る「三世仏」といわれています。 そして、講堂の「弥勒如来」を含めて、「四方仏」のグループが設定されています。「四方仏」は「東・西・南・北」を司る4体の仏を意味しています。 つまり、金堂には、宇宙を構成する「時間」と「空間」のシステムが象徴的に表現されているのです。 ○金堂の「廬舎那仏」は「現世」と「南」を担当しています。「釈迦如来」に近い仏であり、「宇宙のエネルギー」を象徴します。 ○「千手観音」は「来世」と「西」を担当しています。「阿弥陀仏」の代行として、広大な慈悲と「救済」を象徴します。 ○「薬師如来」は「前世」と「東」を担…

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建築再読-J.14 唐招提寺金堂 -1

□□□□□□□建築再読-J.14 唐招提寺金堂 -1「癒しの波紋の広がる空間」 -1定説を外れた異端の視点で自由に想像して読み返しています.□□□□□□□唐招提寺 金堂 /8世紀後期(奈良時代後期)/奈良市五条町□□□□□□□(左/註01)唐招提寺の開創は平城京遷都(710)から49年後でした.(右/註02)奈良時代の伽藍の形態が判りやすい貴重な寺院です.□□□□□□□唐招提寺は、近鉄橿原線の尼ケ辻駅と西ノ京駅との中間の、橿原線と秋篠川に挟まれた位置にあります。 通常は、西ノ京駅から薬師寺を訪れた後、その北門から北にまっすぐ約500m歩き、右に折れて唐招提寺の南大門にアプローチます。 唐招提寺は、鑑真一行が入京して5年後の759年(奈良時代後期)に、朝廷より皇族の宅地跡を譲り受けて寺地とし、開創されました。 伽藍は、建物の寄進を受けて、徐々に整備されていきました。講堂も、760年に平城宮の施設の東朝集殿を移築し、屋根を切妻造りから寄棟造りに改修し、壁や建具を入れた建物です。 (左/註03)唐招提寺伽藍の概略の復原案です.(右/註03)宝蔵(左)と経蔵(右)です. 経蔵は古材を転用しています.□□□□□□□金堂は、鑑真(688-763)没後、鑑真の弟子の如宝(731-815)によって建立されました。 ファーストクラスの国立寺院(官寺)の金堂は、単層で裳階付きの屋根か重層の建築ですから、屋根は二重に造られています。しかし、唐招提寺は私立の寺院ですから、金堂の屋根は単層です。 そして810年…

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建築再読-F.13 ソウル駅 -2

□□□□□□□建築再読-F.13 ソウル駅 -2負の想いを和らげる駅空間」定説を外れた異端の視点で自由に想像して読み返しています.「F.13 ソウル駅-1ー街に活かされた駅空間」の続編です.http://itan-no-saidoku.at.webry.info/201205/article_1.html□□□□□□□ソウル駅/旧駅舎 (文化駅ソウル284) /塚本 靖 /ソウル. 大韓民国/1925年(大正14)□□□□□□□  正面玄関の大きなアーチ 窓は、ドームのアーチに 繋がるように想像すると、 ヴォールトに見えます. そして、そのヴォールトは、半透明の長いチューブになって、郊外に延長していくように想像されます.□□□□□□□「旧駅舎」の正面玄関には、2階に大きなアーチ窓があります。 アーチ窓の軒は両側の塔の軒に連続していますが、白いアーチ部分の両端は、塔の赤い壁の背後に隠れるように造形されています。ですから、アーチ窓は双塔の背後にあるように見えます。 そのアーチ窓は、後方のドームの採光窓のアーチと形状が似ていて、両脇の双塔もドームの四隅の塔状部分に似ています。それは、上下にある2つのアーチは連なるように見えてきます。 アーチが連続するとヴォールトになりますから、ガラス質の半透明のトンネルが、奥の方に続いているように想像されてきます。 そして、トンネルは半透明の長いチューブになって、駅舎の中心を貫通し、駅の背後に延びていくように想像されます。 つまり、正面玄関のアーチ…

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建築再読-F.13 ソウル駅 -1

□□□□□□□建築再読-F.13 ソウル駅 -1「街に活かされた駅空間」定説を外れた異端の視点で自由に想像して読み返しています.□□□□□□□ソウル駅/旧駅舎 (文化駅ソウル284) /塚本 靖 /ソウル. 大韓民国/1925年(大正14)□□□□□□□(左/註01)ソウル駅の東北方向に南大門が見えます(2006年の画像)(右/註02)古い写真なので現在とは様子が異なります(1991年撮影)□□□□□□□ソウル駅は、市の中心部の南東側、崇礼門(南大門)から南西方向に600mほど離れた位置にあって、東向きに建っています。ソウル市の鉄道網の主駅で、日に十数万人が利用しているそうです。 ソウル駅には、東側に隣接して旧い駅舎が保存されています。大ガラス面を多用した大規模な新駅舎とは対照的に、「旧駅舎」はやや小振りの古典主義スタイルの近代建築です。規模は小さくても、品のよい、落ち着いた存在感のある建物です。 (註03) 昔の南大門通りです.李氏朝鮮時代(左)と日本統治時代(右)の写真です.□□□□□□□19世紀の後半の朝鮮半島は、世界の帝国主義活動の渦中に否応なく巻き込まれ、1910年の日韓併合後は、日本の統制下に入りました。 その後、ソウル市(当時は京城府)の人口が急増し、道路や鉄道などの交通網が改良されていきました。 併合という情勢下での都市整備を、「近代化」と言えるかどうかは分かりませんが、都市のインフラは徐々に整ってきました。 当然、ソウルの表玄関となる体裁を整えた中央駅が必要になります。…

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